2016年3月28日月曜日

トポス(141) 震える心を励まして、震える声で歌い始める。

(141)
 弾圧が始まった。秘密警察に加えて軍と国境警備隊の精鋭部隊が動員され、爆弾の支持者たちが逮捕された。違法なビラを懐に隠していた学生たちは棍棒で散々に叩かれてから競技場に送られた。後ろ手に縛られ、目隠しをされた学生たちは競技場の地面に座り込んで爆弾を讃える歌を歌った。爆弾の使徒たちは杭に縛りつけられた。かき集められた数万の市民が競技場の観客席を埋め、派手に飾り立てられた玉座にはヒュンが座った。ヒュンは立ち上がって剣を抜き、国民に向かって挨拶を送った。
「俺は運命を受け入れている。俺は世界を救う英雄になる。だから俺は邪悪な黒い力と戦うんだ」
 トロールを放て、とクロエが命じた。鋼鉄でできた檻の扉が引き開けられ、腹を空かせたトロールの群れが競技場になだれ込んだ。絶叫が上がり、血しぶきが飛んだ。観客席に並んだ市民は耳をふさいで顔を伏せた。それでも悲鳴が聞こえてきた。骨が噛み砕かれ、肉が引きちぎられる音が聞こえてきた。助けを求める叫びが絶えるとトロールは檻に引き戻された。競技場には食い散らされた犠牲者が血の海に浸っていたが、クロエの心は晴れなかった。
 観客席で一人の市民が立ち上がった。震える心を励まして、震える声で歌い始めた。音程もはずれ、歌詞もところどころで欠けていたが、それは爆弾を讃える歌だった。一人の声に、間もなく数人の声が加わった。数人の声に数十人が、そして数百人が、数千人が加わった。競技場が数万の市民の歌声で震えた。
「これは何?」クロエが叫んだ。
「不愉快です」ネロエが言った。
 黒い制服に身を包んで男が音もなく現われて、身をかがめてクロエに耳打ちした。
 クロエがネロエに向かってうなずいた。
 ネロエもクロエに向かってうなずいた。
 予言が成就しつつある、とミュンが言った。

Copyright ©2015 Tetsuya Sato All rights reserved.