2014年9月3日水曜日

異国伝/老人の偉大

(ろ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。荒涼とした高原の彼方にあって青い霞をまとって横たわり、その国を目指す旅人は道標の代わりに星を見つめた。乾いた風を押し切って石のごろつく荒野を渡り、苦労の末に辿り着くとそこには清涼な泉があり、実を稔らせた木々があった。だが土地の者は貧しく、楽しみを知らず、ただ生きるために日々を費やした。訪れる隊商は珍しく、他国との交渉を知らなかった。
 そこは隔絶した場所で、そこで生まれた者の多くは、そのままそこで生涯を終えた。歩くことを覚えたこどもは親を手伝って水を運び、やがて力を備えると父親の隣で鋤を引いた。若者となれば鍬を振るい、あるいは汗を拭って鎌を振るい、やがて収穫の分け前を得るようになると速やかに所帯を構えて子をもうけた。仕事に明け暮れて年を稼ぎ、子を導いて人生の盛りの時期を迎え、子が肩を並べたことに気づいて人生の盛りの時期を終えた。人生の盛りの時期を終えると、心に風が吹き始める。心に風が吹き始めた者は気鬱を訴えて塞ぎ込んだ。働くことをやめ、食べることをやめ、そうしているうちに風は心を満たして外に溢れ、身体をめぐって臓腑の隙間に入り込み、頭や手足の先へ達していく。
 老いの時期を迎えた者は、内側の風に吹かれて大きくなった。風に馴染めば馴染むほど、身体は大きく、そして希薄になっていった。子の顔を再び見下ろすようになり、かざした掌の向こうに孫の顔を見るようになると、老人は家から出ていった。希薄な身体は壊れやすかった。家に残れば天井で頭を打つかもしれなかったし、孫がぶつかってくるかもしれなかった。仮に家に残っても、できることは何もなかった。家族の声は蚊の囁きのように聞こえたし、自分の声は家族の耳に届かなかった。懸命に喉を震わせても、音となって口から出ることはなくなっていた。物を持ち上げることもできなかった。希薄な身体は食べ物も水も受けつけなかった。だから老人は黙って家を出た。家族は静かに見送った。
 外へ出れば、老人は一人ではない。通行人に注意して通りを歩き、町のはずれまで進んでいけば、そこにはほかの老人がいた。様々な大きさの巨人が荒野に佇み、ある者はまだ小さくて色を保ち、ある者は大きくて背後の風景と混ざりあい、またある者は巨大となって大気の中に薄められ、わずかにかつての輪郭を保つ。老人たちは希薄の度合いに応じて仲間を作った。仲間同士であれば言葉を交わすことができたからである。
「どうかね?」 

「まあまあだ」 
 風が身体を満たしているので飢えを感じることはない。気鬱の病はすでに去り、不思議なほどに心は軽い。思い出話に花を咲かせ、笑いで希薄な喉を振るわせた。時には家族が老人たちの居場所を訪れ、家のことや畑のことを報告する。老人たちに聞くことはできなかったが、それでも聞くふりをして頷いた。すべきことはもう何もない。
 時間の経過にしたがって、希薄の度合いが増していく。風に希釈されて、どこまでも大きく広がっていく。輪郭だけを残した者が、その輪郭すらも失って消えていくのを見ることがある。一人が消えると、残された者たちは夜空に瞬く星を見上げた。
「あれは、消えたのではない」と一人が言う。
「そう、広がっていったのだ」と一人が頷く。
 そして残された者は眠りに就き、新たな日を数えて空へと広がっていく。

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