2014年8月28日木曜日

異国伝/乱流の彼方

(ら)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国があった場所では大地が切り裂かれていくつもの深い溝となり、人々は底知れぬ深淵を見下ろす岩棚の上で風に吹かれて暮らしていた。見上げれば崖がそそり立って霞ににじむ空に連なり、空はよじれた短冊となって溝の継ぎ目にはさみ込まれた。崖はあまりにも高く、底はあまりにも深く、ひとは大地の裂け目から出る方法を知らなかった。だから岩の壁からはみ出た危うい場所に家を建て、木を植え、畑を作って種を播いた。そうした岩棚の数は一つではなく二つでもなく、形が異なれば大きさも異なり、高さもてんでに異なっていた。一つの棚には一つ以上の家族が暮らし、大きな棚には町とも見える家並みがあり、消え入りそうな小さな棚には孤独な隠者が一人で暮らした。最大の棚には王の城があったが、王は久しく不在であった。
 棚から棚へは縄が渡され、ひとは縄から吊るした籠に乗って棚から棚へと移動した。だが若者たちは飛ぶことを好んだ。幅広の凧を背負って踵には補助の翼をつけ、風を選って勢いよく棚から飛び出した。溝に風が途切れることはなく、若者は身体で風を覚え、重心のわずかな移動によって風の中を巧みに進んだ。目当ての場所を外すことは滅多になかった。外したとしても深淵に落ちることはまずなかった。吹き上げる風が凧を背負った若者を舞い上げ、どこかの棚へと送り届けた。
 若者たちは凧を使って空を飛び、歓喜の叫びとともに風に乗った。そうして棚から棚へと移動したが、溝から出ることはできなかった。溝と空との間には大気の激しい乱流があり、そこを流れる凶暴な風は読み解かれることを拒んで凧を粉々にした。あるいは絡みあった流れの一つに凧とひとを放り込み、掴んで放そうとしなかった。
 王はそうした風の中にいた。風の解読に長けた王は溝からの脱出を試みて、風の虜となって空中をさまよっていた。水分を飛ばされた身体はすでに干涸び、恐怖と怒りに見開かれた目はとうに光を失っていたが、王の姿を保って岩棚に住む民を睥睨した。頭上に王の姿がある時には、岩棚の民はうつむいて祈りを呟き、屋根の下へと急いで走った。王の姿がない時には、風を見上げて恐怖を覚えた。民の多くは恐れることを知り、恐れることによって風に挑む無意味を学んだ。多くの民が、王は愚かであったと考えていた。だが愚か者は王一人ではない。その前にもいたし、後にもいた。
 ある時、一人の少年が乱流に挑んだ。溝から出ることを望んだのではなく、溝から出られることを明かそうと望んで、岩を蹴って風に乗った。風から風へと渡って上昇する気流を選び、乱流に飛び込んで瞬く間に凧を失った。少年は風から放り出されて木の枝に救われ、最初の挑戦は失敗に終わった。
 次の年も少年は挑んだ。そして二度目の挑戦も失敗に終わり、偶然に救われて生還を果たした。その次の年も、そのまた次の年も、少年は風に挑戦した。挑戦し、失敗を繰り返して戻るうちに少年は若者の姿になっていった。周りの者たちは何度となく諌めに集まり、すでに運を使い尽したと言って脅したが、若者は聞き入れようとしなかった。失敗するたびに風をにらみ、一年を費やして凧を作った。
 五度目の挑戦で風に飲まれた。風を読んで選んだつもりが、凶暴な風の流れに掴まれた。若者は逃れようとして身をくねらせた。重たい風がまとわりつき、息は止まり、凧は身体に逆らって激しく軋んだ。猛烈な速さで溝の中を突進していた。左右の崖は黒い光の中に消え、中心では白い風が渦を巻いていた。やがてその中に黒い点が現われ、それは見る間に近づいて王となった。王は暗い眼窩の奥に光を灯し、若者に向かって腕を伸ばすと耳をつんざく叫びを放った。
「連れてゆけ」 

 王の手が若者の凧を掴み、曲がった爪が布を破った。破れ目に吹き込んだ風が凧を引き裂き、王は再び絶叫を上げた。凧を失った若者は風の手を逃れて落ちていった。他人の家の屋根を破り、背中を激しく打ちつけたが、若者は五度目の生還を果たした。
 それから二年の後に、若者は六度目に挑戦した。若者はすでにひとと語ることをやめていた。ただ風だけを見つめて隠者のように暮らしていた。六度目は乱流を前にして棚に戻り、戻った後で凧を焼いた。その光景を見た者たちは、それで終わったのだと考えた。だが若者は一年を置いて、七度目に挑んだ。改良に改良を重ねた凧で乱流に飛び込み、目にも止まらぬ速さで風を読んで溝の上へ上へと昇っていった。間もなく若者の凧は空をにじませる霞の中に消え、戻ることは遂になかった。

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