2014年8月13日水曜日

異国伝/不明の理由

(ふ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。
 ところがある種の趣味の持ち主にはその国の風俗がはなはだ魅力的に感じられたようで、不明の場所にある不明の国としては意外に思えるほどの訪問者数を誇っていた。しかも訪問者たちは一度訪れてそれで満足するのではなく、二度三度と訪問を繰り返しては感涙にむせびながら自国に戻り、時には旅先での経験と自分が味わった感動とを文章に記して残していた。残してはいたが、不明の理由から一度として公表されたことがない。趣味がよくなかったからに違いないとか、公序良俗に反していたからに違いないとか、本人とはともかく家族や遺族が公表を嫌ったからだとか、理由を推定するのは簡単だが、そのせいで趣味の正体もその国やその国の風俗のことも、まるでわからないままになっている。これは損失であると言わざるを得ない。
 実を言うと一度だけ、旅行者の文書が公表されたことがあるらしい。はっきりとしない記録によれば、公表された文書に記されていたのはわずかに数語であったという。察するに感動が極まって、極まるあまりに常識を超えて発語が圧縮されたせいであろうが、何事によらず言葉を尽くすことが肝心であると信じる我々にとって、そのような圧縮を達成する過程には想像を絶するものがある。だいたい、それでは何事も伝えることはできないと考えるのだが、この場合、それ以上に問題なのは、公表されたその数語がどこにも記録されていないという事実の方であろう。趣味の問題とか感極まってとか言うよりも、我々はこうした状況に重大な怠慢を感じるのである。
 もちろんすべての文書がそうであるとは限らない。立派な文章で書かれた物があるかもしれないし、そうした文書がどこかにまだ残されている可能性もないではない。希望がないわけではないのである。とはいえ、それが好ましい状態で保存されているとは限らないし、もう捨てられてしまって、どこかで紙屑になっていないとも限らない。もしかしたらこの瞬間にも、魚屋の店先でニシンを包むのに使われているかもしれないし、肉屋でレバーを包むのに使われているかもしれない。散々に曲折を経てから油染みをつけた古紙となり、どこかで再生される日を待っているということもあるだろう。本当にそうなっていたら、紙屑の巨大な山の中から目当ての一枚を探し出すのは不可能であろう。希望がないわけではないけれど、ないも同然の状態である。
 以上のような事情からある種の趣味がいかなる種類の趣味であったかは、まだ今のところは明らかにされていない。

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