2014年7月29日火曜日

異国伝/鎮魂の逃走

(ち)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。したがって他国との往来も乏しく、物質的な充足や文化的な洗練とも無縁であったが、気候に恵まれ、風光にも恵まれ、ひとは質素を好んで長寿を誇った。住民の心は穏やかで、争いごとを知らなかったという。外来者の多くは生活の不便を嫌ったが、中には土地に愛を抱いて骨を埋める覚悟をする者もいた。
 ある時、一人の男が母国に一切合切を残してその国を訪れ、平安を求めて住まいを定めた。破産した商人であったとも、汚名を着せられた軍人であったともされているが、正体は定かではない。男は土地の者との交わりを最小にとどめ、もっぱら家に引き籠もって孤独のうちに日を送った。訪れる者はなく、訪ねる相手も持たなかった。だが偶然から一人の老人を助け、友誼を結ぶことになる。
 男はその老人と森で出会った。男は散歩の途中で、老人は斧で脚を傷つけ、血を流して苦しんでいた。男は老人に駆け寄ると、自分の服を裂いて老人の傷の血を止めた。投げ出された斧を拾って老人の肩に腕を回し、まず自分の家へ連れ帰って傷の手当てを施した。それからわずかな語彙を使って老人の家の場所を尋ね、老人が指差す方角を辿って森の奥まで送り届けた。老人は独り住まいで、家は荒れ果てていた。みすぼらしい寝床に横たえると老人は感謝の言葉を呟きながら眠りに落ち、男は静かに立ち上がって家へ戻った。
 それから毎日、男は老人を訪ねていった。傷の手当てを繰り返し、老人の口に食べ物を運んだ。男は老人とその国の言葉で話を交わし、時には自国の言葉で秘密を明かした。意味のわからぬ言葉の響きに、老人は目をうるませて聞き入った。
 男の世話にもかかわらず、老人の傷は悪化していった。傷の毒が全身にまわって、皮膚が黄ばんだ。男は老人を励ましたが、老人はただ頷くだけだった。
 その日も男は老人の家を訪れた。家の前には、一人の男が待っていた。くたびれた顔の初老の男で、やはり他国からの移住者だった。その男が言った。
 余所者同士のよしみで忠告する。死んでいく者とは関わるな。
 関わればどうなるというのか? 

 すると初老の男は袖をまくり、深くえぐれた傷跡を見せた。
 これでも運がいい方だった。
 いったい何が起こるというのか? 

 説明しても信じまい。賢明ならば関わらないことだ。
 そう言うと、初老の男は去っていった。足早に、一度も振り返らずに立ち去った。
 老人と友誼を交わした男は家の中へ入っていった。そこでは老人が死にかけていた。男は老人に水を与えた。老人はすでに動く力を失っていて、わずかに開いたまぶたの下から濁った目で男を見上げるだけだった。男は老人の傍らに腰を下ろして、時を待った。
 陽が傾いていった。家の外で声を聞いて、男は腰を上げた。出てみると、そこには土地の者が集まっていた。数人が男の脇を抜けて、家の中へ入っていった。そして老人の身体を戸板に載せてまた現われた。戸板の上で、老人はまだ生きていた。集まった者の中から一人が老人の前へ進み、口を耳に近づけて何かを囁いた。老人はわずかに身じろぎをして、それから抱き起こされると震える指先で男を差した。集まった者の一人ひとりが順に男の身体に触れていった。
 陽が暮れようとしていた。松明を持つ一人が先頭を歩き、戸板を担ぐ四人の男が後に続いた。四人の後には松明を手にした土地の者が並んでしたがい、男は行列の末尾で土地の者たちに囲まれていた。陽が落ちた後も歩き続けて、ようやく着いた場所は荒涼とした野原の真ん中だった。先頭の一人が松明を地面に差し込むと、四人の男はその傍らに戸板を下ろした。何が始まるでもない。土地の者たちは来たばかりの道を引き上げ始めた。男は老人がまだ生きていることに気がついた。立ち去っていく者たちに声をかけると、一人が足を止めて男に言った。
 親しき者よ。
 男を指差し、老人を指差し、その場にとどまるようにと手真似で告げた。
 男は老人の脇に膝を突いた。土地の者たちの足音が遠ざかり、やがて消えると辺りは静寂に包まれた。松明の燃える音だけが聞こえてくる。男は老人の手を取った。老人は最後の力でまぶたを押し上げ、そこで力を失って死を迎えた。掌の温もりが去っていった。男は手を放して立ち上がった。できることは何もなかった。
 男は松明を取り、遺体に背を向けて歩き始めた。そして数歩も進まぬうちに、背後に奇妙な音を聞いた。振り返って松明を前にかざした。
 戸板の上から老人の遺体が消えていた。そうと知った瞬間に、人間に似た生き物が闇を割って現われた。四つん這いになって細い手足を踏ん張って、男に飛びかかろうと身構える。それは老人の顔をして、老人の服をまとっていた。怪物が跳躍した。男はかわす間もなく押し倒され、のしかかられて腐った息を吐きかけられた。鋭い爪が男の頬をえぐり、黄色い牙が男の首を狙ってにじり寄った。男は松明で怪物を殴った。怪物を蹴り飛ばして立ち上がり、逃げるべき方角を探して闇に目を走らせた。彼方に大きな篝火が見えた。男は炎を目指して走り始めた。四つん這いの怪物は地を蹴って男に追いすがり、爪を繰り出して男の脚に傷を負わせた。流れ落ちる血の温もりを感じながら、男はひたすらに走り続けた。怪物は何度も宙を飛んで、背後から男を組み敷こうと試みた。男は松明を振るって攻撃をかわし、必死の思いで走り続けた。
 篝火が近づいてきた。篝火を囲む土地の者たちの姿が見えてきた。重たい膝を叱咤しながら男はなおも走り続けた。遂に膝が力を失うと、すぐさま二人の若者が走り出て男の身体を両脇から支えた。二人の若者は男を燃え盛る炎の前へと導いていった。背後から凶暴な足音が近づいてくる。怪物が飛んだ。若者たちは男の身体を地面に打ち据え、素早く左右に退いた。怪物は宙を横切り、炎の中へ飛び込んでいった。
 男は立ち上がって篝火の炎に目を据えた。集まった者の一人ひとりが前に進んで、順に男の身体に触れていった。

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