2014年5月21日水曜日

町/ヒト


 あるとき、町にヒトがやって来た。
 どこから来たのかは、誰も知らない。すべてのヒトがそうであるように、そのヒトもまた疑い深そうな目をしていた。そして坊主刈りの頭にいくつものこぶをこしらえ、痩せたからだに継ぎの当たったぼろ服をまとい、古タイヤから作ったとおぼしき奇妙な靴に足を押し込み、肌は陽に灼け、表情は暗く、汚れて黒ずんだ額には深く刻まれたしわがあった。
 ヒトは町役場の前の石段に腰を下ろし、膝に肘を預けてじっと地面を見下ろしていた。道を行く者はヒトに気づき、ある者は汚らわしいものでも見たかのように顔を背け、またある者はヒトがいると叫んで指差した。二人連れで現われてヒトの前で足をとめ、仲間の脇腹を肘で小突いて意味あり気に笑う者もいた。
 役場が開く時間になるとヒトは大儀そうに腰を上げて、ゆっくりと階段を登っていった。一歩ごとに奇妙な靴が滑稽とも聞こえる音を立てた。扉をわずかに押し開けて、なかをそっと覗き込んだ。部屋の真ん中を横切る重そうなカウンターの向こう側に、一人のひどく小柄な男がズボンのポケットに手を突っ込んで所在なげにたたずんでいた。まばらな髪を頭蓋の上に平たくなでつけ、丸い縁の眼鏡をかけ、丸みを帯びた小さな鼻の下に小さな口ひげを生やしていた。ヒトは肩で扉を押して、役場のなかへ入っていった。すり減った板張りの床を靴が踏み、またしても奇妙な音を立てた。その音を聞いて小柄な男が小鳥かなにかのように首を動かし、強い近視の目でヒトを見つめた。
「なにか用かね?」
 そう訊ねてから眉をしかめ、指先で慎重に眼鏡を押し上げ、相手がヒトだということを知って目を丸くして、自分の失態に舌打ちをした。ヒトに質問する者はいない。そのあいだにヒトはカウンターまで進み、そこで足をとめるとこのように言った。
「清掃員の仕事に空きがあると聞いたのですが」
「いや、ない」と小柄な男が首を振った。調べようともしなかった。
「そうですか」
 ヒトは小さく肩をすくめて、出口に向かって歩き始めた。すると小柄な男は手を二度叩き、ヒトが音を聞いて振り返ると、奥に向かって顎をしゃくった。
 町役場の中庭には禁書が山積みにされていた。図書館を作れるほどの大量の本が整理も整頓もされないまま、雨ざらしになって水を吸い、崩れた紙の山となっていた。古典の立派な全集も、自由を訴える薄っぺらなパンフレットも区別がない。
「この本を」と小柄な男が指差した。「残らず警察署の中庭へ運べ」
「これは、清掃員の仕事ですか?」
「いや、違う」
 小柄な男は首を振り、建物のなかへ戻っていった。ヒトは仕事に取りかかった。手近にあった本の山から抱えられるだけを前に抱え、隣の警察署まで運んでいった。警察署では若い警官が現われて、ヒトだという理由だけでヒトを警棒で殴ったが、本を運ぶ邪魔をしようとはしなかった。ヒトは黙々と本を運んだ。午後になってから役場の小柄な男が顔を出し、仕事が遅いとひげを震わせて罵った。ヒトは本を運び続けた。一度の休憩も取らなかった。最後のひと抱えを運び終えたときには、すっかり日が暮れていた。役場では一日の勤務時間がとっくの昔に終わっていて、扉にはしっかり鍵がかかり、なかは暗く、呼んでも応える者は一人もない。帰宅したのか、小柄な男の姿もなかった。
 ヒトは小さく肩をすくめて、町役場から出ていった。雨が降ってきた。ヒトは屋根を求めて町をさまよい、教会を見つけて近づいていった。なぜか堂守の小屋には屋根がなかった。聖堂の扉が開いていた。なかへ入って信徒席に腰を下ろし、寒さに震えて上着の前をたぐり寄せ、自分を抱いて背中を丸めた。眠りかけて首を落とし、足音を聞いて顔を上げた。目の前に神父が立っていた。
「祭壇の脇に雑巾とバケツがある。それで床を磨きなさい」
 それだけ言うと足早に立ち去った。ヒトは立ち上がり、仕事に取りかかった。聖堂の床を隅々まで磨くのに夜明けまでかかった。仕事を終えてバケツと雑巾を片づけると、堂守が現われてヒトを追い出し、聖堂の扉に鍵をかけた。
 ヒトは教会の前に腰を下ろして、膝を抱えてまどろんだ。そうしていると背中が曲がった老婆が現われ、小さなパンのかたまりを投げてよこした。ヒトはパンを二つに分けて、半分をゆっくりと口に入れ、半分は上着のポケットに押し込んだ。そして再びまどろんだが、ふと目を開けると七人の学生に囲まれていた。
 学生たちはヒトの学歴を問い質した。ヒトは高い教育を受けていた。法学と文学の学位を持ち、自然科学にも造詣があった。そこで学生たちは下宿の一室にヒトを閉じ込め、学校へ提出するための論文をヒトに書かせた。ヒトは一昼夜で文学史に関する七本の微妙に異なる論文を書き、続く一昼夜で法哲学に関する七本の微妙に異なる論文を書いた。学生たちはヒトに酒を飲ませ、自分たちもまたしたたかに飲み、酔って吐き気を覚えるとヒトを散々に殴りつけて下宿の外に放り出した。
 道端に転がっていたヒトを下宿の女中が買い物帰りに拾い上げた。ヒトは女中に命じられるまま台所に立って洗い物を片づけ、夕食のためのスープを作り、女中の目を盗んで一本のニンジンをちょろまかし、下宿人の部屋をまわって寝台のシーツを交換した。汚れたシーツの束を近くの洗濯屋へ届けたところへ、洗濯屋の太った下働きが何事かをわめきながら襲いかかった。わめいていたことに意味はなかった。洗濯屋の下働きはヒトを洗濯場に叩き込み、九日のあいだ、自分の代わりに仕事をさせた。十日目の朝に洗濯屋の主人が事実に気づき、下働きをクビにした。下働きは不当解雇を理由に役場に訴え、役場からやってきた小柄な男はヒトを洗濯場から引きずり出して警察署の中庭へ連れていった。
 警察署の中庭には禁書が山積みにされていた。図書館を作れるほどの大量の本が整理も整頓もされないまま、雨ざらしになって水を吸い、崩れた紙の山となっていた。古典の立派な全集も、自由を訴える薄っぺらなパンフレットも区別がない。
「この本を」と小柄な男が指差した。「残らず町役場の中庭へ運べ」
 ヒトは仕事に取りかかった。手近にあった本の山から抱えられるだけを前に抱え、隣の町役場まで運んでいった。町役場では初老の守衛が現われて、ヒトだという理由だけでヒトを警棒で殴ったが、本を運ぶ邪魔をしようとはしなかった。ヒトは黙々と本を運んだ。午後になってから役場の小柄な男が顔を出し、仕事が遅いとひげを震わせて罵った。ヒトは本を運び続けた。一度の休憩も取らなかった。最後のひと抱えを運び終えたときには、すっかり日が暮れていた。役場では一日の勤務時間がとっくの昔に終わっていて、扉にはしっかり鍵がかかり、なかは暗く、呼んでも応える者は一人もない。帰宅したのか、小柄な男の姿もなかった。
 ヒトは小さく肩をすくめて、町役場から出ていった。雨が降ってきた。ヒトは屋根を求めて町をさまよい、とある居酒屋の前をとおりかかった。酔漢たちの歌声が聞こえた。立ち去ろうとしたところで自由派の議員に呼び止められた。議員は革新的な条例の準備を進めていたが、法的な論証が不十分だと考えていた。ヒトは議員が取り出した条例案に目をとおし、雷鳴が聞こえるなかでいくつかの有益な助言をおこなった。その上で自らの窮状を訴えると、自由派の議員はヒトの肩をやさしく叩いてこのように言った。
「大丈夫だ。未来は必ず訪れる」
 議員は雨のなかを走り去り、残されたヒトは町を横切り、町の外れに近い大きな厩に難を逃れた。厩の持ち主はウシも飼っていた。早朝、ヒトは叩き起こされて乳搾りの手伝いに駆り出され、ウシの持ち主の目を盗んで搾ったばかりの牛乳を飲んだ。午後はウマに秣を運び、厩の藁を交換した。厩から出た汚れた藁は荷車に積んで近くのレンガ工場まで運んでいった。藁を下ろして帰ろうとすると、いきなりスコップを押し付けられて粘土の採掘場へ放り込まれた。十日のあいだ、ヒトは雨に叩かれながら泥だらけになって粘土を掘り、十一日目に力尽きて昏倒した。ヒトは病院に担ぎ込まれ、鼻からカテーテルを押し込まれ、無理矢理胃に栄養を送り込まれた。七日ほどでヒトは起き上がった。
 それからヒトは皿洗いの代わりになって皿を洗い、清掃人の代わりにドブをさらい、学生の代わりに宿題を済ませ、大工の下働きとなって罵られながら材木を運び、窓拭きの代わりに窓を拭き、墓掘りの代わりに墓を掘り、ロバの代わりに荷車を牽いた。監獄の囚人たちは獄舎の窓から大声でヒトを呼び、ヒトを走らせて買い物に使った。
 一度は山に連れ去られて炭焼きの代わりに炭を焼き、樵の代わりに木を伐り倒し、すぐに連れ戻されて役場と警察のあいだに積み上げられた本を焼いた。教師に代わって試験の採点をしたこともあった。少年たちに代わって新聞を配ったこともあった。午前には植字工の代わりに活版を組み、午後には再びスコップを握って粘土を掘った。夜になると酔っ払いどもはヒトをつかまえ、ただ楽しみのためにヒトを殴った。
 ヒトは町の手となり足となり、叩いてこぶをこしらえるべき頭となった。ヒトがいれば誰もが自分の仕事をヒトに押しつけ、気まぐれに罵声を張り上げて拳を振るった。町でただ一紙の新聞は社説でヒトの使役を肯定的に論評し、保守派も自由派も取り混ぜて多くの者がその見解に賛意を示し、ヒトは必要不可欠であると考えた。だが別の見解も存在した。ヒトは奉仕と忍従によって町の者に怠惰と傲慢に耽る機会を与え、果てしない放縦と堕落に導いた。ということは、町に災厄をもたらしているのではあるまいか。この意見を聞いた人々は、腕を組んでうなり始めた。
 最後の日にヒトは一人でスコップを握り、町の大通りにできた大きなくぼみを直していた。町に雇われた工夫たちは道端に腰を下ろしてタバコを分け合い、ヒトの働きぶりを眺めていた。そこへ役場の小柄な男が現われて、手を叩き合わせてヒトを呼んだ。ヒトはスコップを置いて小柄な男の前に立った。小柄な男は眼鏡の位置を慎重に直し、丸い鼻の下の小さな口ひげを軽くこすり、懐から一枚の薄っぺらな紙を取り出すと、目の前にかざして読み上げた。追放命令だった。
 ヒトは小さく肩をすくめ、そして町から出ていった。
 どこへ行ったのかは誰も知らない。

Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.