2013年1月22日火曜日

伊坂幸太郎『マリアビートル』

 伊坂幸太郎氏が二〇〇四年に発表した『グラスホッパー』は複合的な視点の使い方と視点の変わり目にぺたんと押された丸い印影が特徴的な、殺し屋と死体の多い小説だった。その『グラスホッパー』からスタイルと背景世界を受け継いだ『マリアビートル』も殺し屋と死体の多い小説である。
 ただしこの小説に与えられた時間軸の長さはわずか二時間半、東北新幹線『はやて』が東京駅を出発してから盛岡駅に到着するまでであり、おもに殺し屋からなる登場人物が列車内を舞台にそれぞれの事情と運命とをからめ、からんだところから紡ぎだされる緊張の糸は終点盛岡に向かって否応なしに太くなる。
 時間と空間における制約(この場合は時刻表どおりに走る列車の中)は書き手にとって挑戦的な選択であり、作者は選択の結果を読み応えのある力作として結実させた。なにしろ列車の中が舞台であり、特に貸し切りというわけではないので常に衆人環視にさらされている。ただ物を隠すのにも苦労するし、敵が前方にいれば車両を通り抜けるのも難しい。しかも車内販売のワゴンがどこからともなく現われて、しばしば通行の障害となる。だから殺し屋と殺し屋は三人掛けの座席の窓側と通路側に腰を下ろして、そこで息をひそめて戦うことになるのである。列車という空間の使い方にこれほどまでにこだわった作品というのはあまりないのではあるまいか。
 もちろん伊坂氏独特のキャラクター造形はここでも変わらずに健在であり、殺し屋の一人が場面に応じてドストエフスキーやヴァージニア・ウルフを引用すれば、その相棒は相棒で『機関車トーマス』の世界を使って周囲の状況を説明する。特にこの檸檬と名乗る殺し屋の『機関車トーマス』への傾倒ぶりが愛らしく、その傾倒ぶりを単なる愛着に終わらせるのではなく、ストーリーへと確実に回収していく作者の手つきが頼もしい。
 さて『マリアビートル』には『グラスホッパー』の登場人物が何人か顔を出しているが、そのうちのひとりはかつてバッタの群衆相に触れ、都市化した人間もバッタと同じように暴力性を帯びていると指摘した。『マリアビートル』ではその暴力性が無法な支配の論理を得て人間性を貶める。『グラスホッパー』でバッタの群衆相に触れるのは経験を得た殺し屋だが、『マリアビートル』で支配の論理をふりかざすのは中学生である。中学生は現実の経験を必要としない。遍在する言葉が暴力の源泉となり、この中学生を武装させる。その強さは圧倒的であり、倫理観から切断されたとき、我々がいかに無力になるかを見せつける。そして孤立無援になった我々は結末を運にまかせることになるのである。この作品における運と不運の作用には、ぜひ注目していただきたい。
(週刊現代 2010/10/30号)


Tetsuya Sato