2012年11月30日金曜日

Vフォー・ヴェンデッタ

Vフォー・ヴェンデッタ
V For Vendetta
2005年 アメリカ/ドイツ 132分
監督:ジェームズ・マクティーグ

近未来のイギリスはサトラー終身議長率いる怪しい保守政党の独裁下にあったが、ガイ・フォークス・デイにガイ・フォークスの仮面をかぶったVと名乗る怪人が現われて裁判所を爆破、来年のガイ・フォークス・デイには議事堂を爆破すると予告する。
アラン・ムーアの原作は未読。製作・脚本はウォシャウスキー兄弟。Vがヒューゴ・ウィーヴィング、Vの登場に翻弄されるテレビ局の職員がナタリー・ポートマン、事件の捜索にあたる警視庁の警視がスティーブン・レイ、独裁者がジョン・ハート。
独裁政権が妙に小所帯だったり、独裁が始まって久しいという割りには昨日始まったような雰囲気だったり、一年間という話のタイムスパンが必ずしも消化されていなかったり、といったあたりが少々気になったものの、かっこつけたダイアログは気が利いているし、語り口もいい感じで、ストレートにアクション映画に仕上げることよりも話の傍系にたむろする無数の顔をていねいに見せていく演出が気に入った。なかなかにおいしい映画である。
ちなみにガイ・フォークスの火薬陰謀事件についてはイギリスのTVドラマ『レジェンド・オブ・サンダー』で見ることができる(ロバート・カーライルがジェームズ一世をやってるからね)。 



Tetsuya Sato

2012年11月29日木曜日

ムーンフリート

ムーンフリート
Moonfleet
1955年 アメリカ 89分
監督:フリッツ・ラング

18世紀なかばの英国南部、ドーセットシャー。ジョン・モフーンという名の少年がムーンフリートという村を訪れる。少年が携えていたのは母親の遺言で、それによれば村に住むジェレミー・フォックスという男が少年の後見人となってくれる筈であった。ところがそのフォックスは知らぬ者のない悪党で、密輸人どもの総元締めで、かつてはモフーン一族のものであった館に愛人とともに暮らしている。フォックスは少年をパブリック・スクールに叩き込もうとたくらむが、少年はフォックスの奸計をくぐって一族の館の住人となる。さて、ムーンフリートの村には奇怪な伝説があり、それは少年の祖父の死と一族の破産にまつわるものであり、伝説の背後には謎があって、その謎は巨大なダイヤの所在を示している。さてフォックスはささいな理由から愛人の恨みを買い、密告によって一党は治安判事の手に追われる。逃げ場を失ったフォックスは起死回生の手を打つために少年が得た手がかりを解き、謎のダイヤを所在を明かして砦に深く潜入する。
映画全体を通しての演出的な強さはないが、何かしらの事件が起こって絵が動き始めると、なかなかにすごい。とはいえスチュアート・グレンジャーという役者はやはり魅力に乏しいのである。

ムーンフリート [VHS]

Tetsuya Sato

2012年11月28日水曜日

死刑執行人もまた死す

死刑執行人もまた死す
Hangman Also Die
1943年 アメリカ 134分
監督:フリッツ・ラング
脚本:ベルトルト・ブレヒト、フリッツ・ラング、ジョン・ウェクスリー

1942年5月。ボヘミア及びモラビアの総督で、その酷薄さから死刑執行人と呼ばれたナチ高官ラインハルト・ハイドリッヒが襲撃を受け、翌6月、回復しないまま死亡する。
映画はその史実を背景にして淡々と進むゲシュタポの捜査状況、裏切り者を内部に抱えて苦悶しながらも闘争を続ける自由チェコ軍、闘争に巻き込まれて頭を混乱させる女学生とその一家を主人公に、プラハの市民がドイツに欺瞞情報を流し続け、ついにドイツ側を根負けさせるまでを描き出す。通俗的だが、とにかくスリリングで面白い。ゲシュタポの現場捜査官の小役人ぶりも面白い。そして小気味よいほどに抑制された描写、生理に背かないカット割り、まばゆいばかりに絢爛とした映像は見ていて実に心地よい。



Tetsuya Sato

2012年11月27日火曜日

M

M
M - EINE STADT SUCHT EINEN MORDER
1931年 ドイツ 99分
監督:フリッツ・ラング

少女が殺害される事件が連続して起こり、町は恐怖に包まれ、警察の捜査は難航する。そして裏の社会も警察の広域捜査によって多大なる迷惑をこうむり、このままでは商売が立ち行かなくなると警戒したかれらは自衛のために立ち上がる。路上生活者を町の各所に配置して監視ネットワークを作り上げ、犯人を探し当てると廃虚の地下に拉致してきて犯罪社会の裁判にかける。
話は警察、犯罪社会、殺人犯の三つの軸で進行し、まず警察は情報を集め、証拠を募り、文字通りに藪を掻き分け、聞き込みと事情聴取を繰り返す。犯罪社会は無数の目によって路上を監視し、犯人の存在に気づくと手段を選ばずに追い詰めていく。そして犯人は自らの行為に困惑し、それでも内面の要求に抗うことができずにいる。悪が悪を追い詰めるという矛盾した図式の中でピーター・ローレ扮する殺人犯の造形はいやおうもなく際立つが、警官や犯罪者の造形も実に魅力的で、またここが肝心なところだが、全員が実にてきぱきと自分の仕事に励むのである。登場人物の知能指数が高くて、目的が明確で行為によどみがないところがいい。映画そのものについて言えば、不要な部分が何もない。サスペンス映像のスタイルをこの時点で確立しているというすごさももちろんあるわけだけど、それ以上に物語のコストパフォーマンスに注目したい傑作である。





Tetsuya Sato

2012年11月26日月曜日

スピオーネ

スピオーネ
Spione
1928年  ドイツ 144分
監督:フリッツ・ラング

諜報部がその無能によってメディアに叩かれていた頃、ハーギ銀行の内部に秘匿された巨大な諜報機関を率いる男ハーギ(横顔がレーニン、顎ひげはトロツキー、正体は『メトロポリス』のロートヴァング)は日本と交わされる秘密条約の条文を盗もうと陰謀を進め、女スパイのソーニャを使って諜報部の有能そうなスパイ326号を篭絡するが、意外にもソーニャと326号は恋に落ち、ソーニャが任務の都合で唐突に姿を消すと326号は痛烈な恋の痛みを感じてすぐさま酒におぼれるが、そこへ現われた日本諜報機関の長、松本博士は326号にソーニャの正体を告げ、言った舌の根も乾かないうちに別の女スパイを自分の家に引き入れる。同じ頃、ソーニャに情報を売った参謀本部の大佐は追及を受けて死を選び、大佐が受け取ったポンド紙幣が続き番号であることに気づいた326号は紙幣の出所を確かめるべく出先から諜報部に打電するが、電報の内容はカーボンによって写し取られ、諜報部長には偽の情報が渡される。ソーニャの独占をたくらむハーギは326号にも偽の情報を与え、列車事故を偽装して殺害しようと試みるが、326号は事故を生き延び、そこへハーギを裏切ったソーニャが駆けつけ、ハーギの陰謀が明るみに出る。しかしソーニャはハーギによって誘拐され、ハーギ銀行に駆けつけた警官隊はハーギの秘密機関の入り口が見つけられず、そうするうちにソーニャには死の手が迫り、銀行の建物にはガスが充満する。
極小のスパイカメラ、消えるインク、秘密機関の得体の知れないコンソール、同じく得体の知れない伝言装置といった妙なギミックが登場するし、後半に入って人物関係が煮詰まってくるとサスペンスもいちおうの盛り上がりを見せるものの、エスピオナージュという題材を扱っている割には登場人物がいまひとつ賢さに欠け、いまひとつきちんと仕事をしていない。ロマンスが前へ前へとしゃしゃり出て、326号はソーニャとの恋にほとんど最初から最後までもだえているし、敵方のハーギも嫉妬を捨てきれないし、松本博士も女にだまされ、失敗の責任を取って切腹する。情報戦を扱っている、という観点からは『M』のほうが好ましい。 



Tetsuya Sato

2012年11月25日日曜日

メトロポリス

メトロポリス
Metropolis
1927年  ドイツ 118分
監督:フリッツ・ラング

高層ビルが立ち並ぶ未来都市メトロポリスでは労働者は地下で暮らして十時間の交替労働に呻吟し、一方、支配階級の子弟はスポーツをしたり女性と戯れたりして暮らしている。そしてメトロポリスの支配者ジョー・フレーダーセンの息子フレーダー(つまりフレーダー・フレーダーセン)がその日も永遠の園と呼ばれる場所で女性と戯れていると、そこへ地下都市の女性マリアが労働者の子供たちを引き連れて現われる。フレーダーはマリアに強く惹きつけられ、その正体を知るために跡を追うが、途中、機械の爆発事故を目撃して激しく狼狽し(労働者たちがまるでごみのように)、町の中心にそびえるバベルの塔を訪れて見てきたことを父親に伝える。父親のジョー・フレーダーセンは事故報告を息子から受けたことで側近ヨザファートに怒りを覚え、さらに別のことでも怒りを覚えてヨザファートを解雇する。ヨザファートは解雇されたことで狼狽して自ら命を絶とうとするが、フレーダーによって思いとどまるように説得され、このことでフレーダーとヨザファートのあいだに信頼が生まれる。フレーダーはヨザファートとの再会を約して地下へ進み、そこで労働者11811号と出会って服を交換し、労働者の服を着たフレーダーは地下都市のさらに下にある2000年前のカタコンベへ足を踏み入れ、そこでマリアと再会する。マリアは我慢の限界に達した労働者たちに平和を求め、間もなく媒介者が現われると予言するが、その媒介者こそがフレーダーなのであった。これよりも少し前、メトロポリスの支配者ジョー・フレーダーセンは、労働者の不穏な動きについて助言を求めるために事実上のマッド・サイエンティスト、ロートヴァングの家を訪れるが、その家で目にしたものはジョー・フレーダーセンの亡き妻を悼む巨大な彫像であった。ロートヴァングはジョー・フレーダーセンの恋敵であり、ジョー・フレーダーセンがその事実をおおむね忘れていた一方で、まったく忘れていないロートヴァングは死んだ女を機械人間としてよみがえらせようとたくらんでいた。それはそれとして、この二人は地下へもぐってカタコンベでの労働者の集会を目撃し、一計を案じたジョー・フレーダーセンはロートヴァングに指示を与え、ロートヴァングはマリアをさらって機械人間にマリアの顔を写し取る。マリアの顔を与えられた機械人間はみだらな表情を浮かべてジョー・フレーダーマンに肩を寄せ、その様子を目撃したフレーダーは衝撃のあまり病の床につく。そして病床で悪夢にうなされるあいだに偽のマリアは七つの大罪を背負って活動をはじめ、メトロポリスの歓楽街ヨシワラに現われて半裸の姿で踊り狂うので、上流階級の子弟までがその狂乱に飲み込まれる。続いて偽のマリアは労働者のなかへ送り込まれ、そこで暴動を扇動するが、これはジョー・フレーダーセンが弾圧の理由を得るためであった。偽のマリアの扇動で労働者たちの暴動が始まり、機械が破壊され、労働者住宅のある地下都市では浸水が起こる。本物のマリアはロートヴァングの家から逃げ出して地下へ急ぎ、水に浸る町から子供たちを救い出し、そこへ現われたフレーダー、ヨザファートとともに地上を目指すが、このとき、すでに偽のマリアはヨシワラへ戻って乱痴気騒ぎの中心となり、マリアの扇動で子供たちを奪われたと思い込んだ労働者たちは本物のマリアを処刑しようと襲い掛かる。だが労働者たちは偶然から偽のマリアを捕らえ、偽のマリアは火あぶりにされて機械人間の正体を現し、一方、本物のマリアは窮地を逃れ、フレーダーは媒介者として父親と労働者たちの手を結ぶ。
いささか通俗的なところへ加えてメッセージが多い内容になっているが、フリッツ・ラングがストーリーやメッセージにどの程の度関心を抱いていたかは疑問である。それよりも目につくのはメトロポリスの威容であり、精密なストップモーション・アニメーションの成果であり、三十年代に足をかけたドイツでなければ誰も思いつけないような未来派の競技場であり、異様な機械にまとわりつく労働者たちの姿であり、機械人間の変身プロセスであり、なによりもヨシワラにおける偽マリアの狂乱である。クライマックスへ向かってひた走るモブシーンがまたものすごく、見ていて頭がくらくらした。





Tetsuya Sato

2012年11月24日土曜日

ニーベルンゲン

ニーベルンゲン
Die Nibelungen
1924年 ドイツ 286分
監督:フリッツ・ラング

第一部「ジークフリート」(140分)。ミーメのところで修業を終えたジークフリートは自らが鍛えた剣を手に森へ入り、どこから見てもとてもおとなしそうな竜を倒してその血を全身に浴びる。ジークフリートはこの血によって不死となるが、このとき背中に木の葉が張り付いていたため、その一点だけが急所となる。ジークフリートは途中、アルベリヒから隠れ頭巾を奪い、財宝を我が物とした上でブルグンドを訪れ、グンター王の妹クリームヒルトに求婚する。しかしグンター王はハーゲンの入れ知恵によって求婚に条件をつけるので、ジークフリートはグンター王とともにアイスランドを訪問、隠れ頭巾の力を使ってグンター王とブルンヒルトの結婚を実現し、自分もまたクリームヒルトと結婚してグンター王と義兄弟の契りを交わす。ところが強情なブルンヒルトはグンター王に従おうとしないため、ハーゲンの要求を受けたジークフリートは再び隠れ頭巾を使ってブルンヒルトをおとなしくさせるが、なおも尊大なブルンヒルトに対してクリームヒルトが事実を告げる。怒ったブルンヒルトはグンター王にジークフリートの殺害を求め、ハーゲンはクリームヒルトに近づいてジークフリートの弱点を聞き出してジークフリートを殺害する。
第二部「クリームヒルトの復讐」(146分)。憎しみによって鉄の女と化したクリームヒルトはジークフリート殺害の下手人ハーゲンの首を求めるが、グンター王があくまでも拒むので、フン族の王アッチラの求婚を受けてブルグンドを去る。そしてアッチラとのあいだに男児をもうけ、フン族の夏至の祭りに自分の兄弟たちを呼び寄せる。その上でアッチラにハーゲン殺害を求めるが、そもそも騎馬民族であるアッチラは歓待の掟を理由に譲ろうとしない。そこでクリームヒルトはフン族の戦士たちを金で私兵化し、宴会の最中にブルグンド王の随員たちを襲わせる。虐殺の知らせはブルグンドの生き残りによってアッチラの宮殿にもたらされ、するとなにを考えたのか、ハーゲンがいきなりアッチラの子を殺すので、事態はいよいよ紛糾する。クリームヒルトは嘆き悲しむアッチラとともに宮殿を離れ、宮殿の広間に残されたグンター王以下ブルグンドの一行は広間にいたフン族を掃討し、扉を閉ざして立て篭もる。するとクリームヒルトの私兵と化したフン族が数を頼みに襲い掛かり、これがフン族とも思えないことに何度となく撃退されるので、クリームヒルトは宮殿に火を放つ。
4時間40分はさすがにやや長いが、じわじわと話が進むのを眺めていると次第に気持ちがよくなってくる。クリームヒルトの特異なデザイン、ダイナミックな合成ショットで作られたアイスランド、フン族との攻防戦、と見どころが多く、絵作りにはこだわりがあり、特に第二部は不思議な躍動感にあふれている。それにしてもひとの家の家庭争議に巻き込まれたアッチラがなんだかかわいそうなのであった。 



Tetsuya Sato

2012年11月23日金曜日

都市を生きぬくための狡知

都市を生きぬくための狡知
タンザニアの零細商人マチンガの民族誌
小川さやか 2011年 世界思想社

本書はタンザニア都市住民の経済活動に関する研究で、大学院博士論文『アフリカ都市零細商人の商慣行に関する人類学的研究』に加筆、修正を加えたものだという。
筆者はタンザニアの都市ムワンザを訪れ、そこでおもに路上を活動の拠点とする零細商人(マチンガ)に関心を抱き、そしておそらく人類学の研究としてはあるまじきことに研究者としての透明性を放棄すると、みずからマチンガとなっておよそ10年にわたって活動を続け、露店を賃貸し、マチンガに商品を卸す卸売商にまで出世して、「テレビ番組やタブロイド紙のゴシップ記事に登場するほど、ムワンザ市全域で『外国人のマチンガール(行商少女)』として超有名人」になり、つまり怒涛の実体験の迫力をもってこの世界を詳述する。
書名となっている『都市を生きぬくための狡知』とはマチンガを構成するタンザニアの都市貧困層の経済活動における独特の挙動をさし、これは商行為から一般的に想像される契約行為とはやや異なる次元で展開する。たとえば路上で古着を売るマチンガたちは商品を卸売商から仕入れているが、マチンガに商品を売る卸売商は小売商の本名を知らないし、住所を知らないこともある。それでも卸売商はこのどこの誰かもよくわからないマチンガに掛けで商品を売り、ときには持ち逃げをされながらもどうにか商売を回転させて、売り上げを持ち帰れない小売商には生活補助まで与えたりする。このような取引形態をマリ・カウリ取引と呼び、マリ・カウリ取引における小売商、卸売商の、よく言えば機転、あるいは機知といったようなものをウジャンジャと呼ぶ。悪く言えば互いに舌先三寸でずるをしかけて、そのずるを肯定的に評価することで得体の知れない信頼関係を生み出しているようなのである。
筆者はマチンガのウジャンジャな世界を豊富な実例と実体験で説明し、さらにタンザニア現代史を振り返って独立後から現在にいたるまでの古着ビジネスの変遷を示すことで、それがどこかの映画のエキストラのように唐突に出現したものではまったくなくて、歴史的な必然性を帯びていることを証明する。なにしろ研究者自身がマチンガであった、という理由から証言などにはある種のかたよりがあることは否めないが、対象に密着して取材した成果はまったくあなどれないものであり、アフリカの都市空間における雑踏の正体をきわめて立体的に浮かび上がらせることに成功している。現代アフリカを知る上では間違いなく貴重な著作である。



Tetsuya Sato

2012年11月22日木曜日

イン・マイ・カントリー

イン・マイ・カントリー
Country of My Skull
2004年 イギリス・アイルランド・南アフリカ 104分
監督:ジョン・ブアマン

1994年の南アフリカ。アパルトヘイトの実態を明らかにするための公聴会が各地で開かれ、被害者が語り、恩赦を求める加害者もまた事実を語り始める。
サミュエル・L・ジャクソンはワシントンポストから派遣されたアフリカ系アメリカ人で、罪を求める代わりに恩赦を与える真実和解委員会の姿勢に反発し、本国に扇情的な記事を送る。ジュリエット・ビノシュはオレンジ自由州出身(つまりボーア人)で、家族とのあいだに政治的な違和感を覚えている。
ジョン・ブアマンは立場を決めて問題を声高に叫ぶのではなく、適当な距離感を保ちながら証人たちの証言を淡々とはさみ、そのあいまに主人公ふたりが多数のジャーナリストに混じって公聴会を追いかけながら取材を続け、反発したり、親密になったり、という様子をまた淡々と描き込む。暴力的な表現は回避され、証言に現われる事件は再現されることがなく、まれにその痕跡のみが示される。代わりに証人が語る言葉は雄弁になり、「どんなジャッカルだってヒツジにしないようなことを、あなたがは人間にやったのだ」と警官たちを指差すと、警官たちはただ恥じ入るしかすることがない。全編を通じてジョン・ブアマンは確実な筆力を発揮し、場面の流れはよどみなくて心地がよい。そして微妙な心理描写には思わずはっとさせられる。サミュエル・L・ジャクソンとジュリエット・ビノシュに非常によい仕事をしており、特にジュリエット・ビノシュは魅力的。 





Tetsuya Sato

2012年11月21日水曜日

ポイント・ブランク

殺しの分け前 ポイント・ブランク
Point Blank
1967年 アメリカ 92分
監督:ジョン・ブアマン

ウォーカーは友人マル・リースの頼みで強盗の仕事に加わるが、仕事が終わったところでマルに撃たれ、しかも女房まで奪われる。負傷から回復したウォーカーは女房を追い、マルを探し出し、さらにマルのボスを探し出し、その共同経営者も探し出し、自分の取り分93000ドルをしつこく要求する。
ウォーカーがリー・マーヴィン。時間の経過の意図的な圧縮は幻想的な反面、わかりにくさを生んでいる。ジョン・ブアマンの演出はきわめて野心的だが、小演劇的な手法はもしかしたらわざとらしい。





Tetsuya Sato

2012年11月20日火曜日

エメラルド・フォレスト

エメラルド・フォレスト
The Emerald Forest
1985年 イギリス 114分
監督:ジョン・ブアマン

アメリカ人のダム設計技師ビル・マーカムは妻と幼い息子を連れてブラジルを訪れ、密林から現われた幻の部族がビル・マーカムの息子をさらって森へ消えるので、ビル・マーカムは以降10年にわたって息子を探して密林をさまよい、ようやく発見した息子は幻の部族の一員となって文明世界への帰還をこばむが、密林世界の崩壊とともにすっかり堕落してギャング同然となった部族が幻の部族の女たちをさらって堕落した文明世界へ連れ去るので、ビル・マーカムの息子は都市で暮らす父の前に現われて協力を求め、女たちを取り戻した幻の部族は密林を崩壊から救うために祈祷をおこない、空から無量の雨を降らせる。
幻の部族のほとんど超自然的な造形がすごいし、堕落した部族の半端ではない堕落ぶりがまたすごいし、幻の部族が暮らす密林がなんだか力強くて、だから最後の最後になって一大カタストロフが到来しても思わず納得してしまう、というジョン・ブアマンの筆力がやはりすごい。すごい、すごいと言っているだけなのである。熱帯雨林の破壊については、実はこの映画で初めて見た。





Tetsuya Sato

2012年11月19日月曜日

テイラー・オブ・パナマ

テイラー・オブ・パナマ
The Tailor of Panama
2001年 アメリカ/アイルランド 109分
監督:ジョン・ブアマン

スキャンダルを起こしてパナマに左遷されたMI6の工作員(ピアース・ブロスナン)が、地元権力階級御用達の仕立屋(ジェフリー・ラッシュ)を説得と強要で抱き込み、ありもしない陰謀を出現させる。どうやらパナマの大統領は日本や中国にパナマ運河を売り飛ばそうとしているといったような陰謀である。そこで英国情報部は話をアメリカ国防省に売り込み、アメリカはうかつに話に乗って緊急展開部隊を待機させ、現地には活動資金を提供する。展開の大筋に沿ってピアース・ブロスナンは007まがいの女たらしぶりを発揮し、下劣な工作員ぶりも発揮して仕立屋を恫喝し続ける。隠された過去を持ち、虚言癖を備えた仕立屋はそのせいで混乱し、仕立屋の女房(ジェイミー・リー・カーティス)は亭主の混乱ぶりを見て眉をひそめる。ジェイミー・リー・カーティスの女房がほんとうに怖い。
この3人を主軸に大統領を筆頭とするパナマの権力集団、ノリエガ時代の反政府勢力の闘士、英国外務省などが登場し、その書き込みがまたがっちりとしていて手抜かりがなく、最初から最後までまったく気が抜けない。謀略サスペンスがすごいから気が抜けないのではなく、語り手ジョン・ブアマンが物語っていく手つきがあまりにも巧みで、しかも心地よいので気が抜けないのである。目を見開いて息を止めて最後まで見つめ、満足の吐息とともに見終わった。 


Tetsuya Sato

2012年11月18日日曜日

戦場の小さな天使たち

戦場の小さな天使たち
Hope and Glory
1987年 イギリス 113分
監督:ジョン・ブアマン

1939年の9月から翌年の夏の終わりまで、およそ1年間にわたる英国の市民生活を主として少年の目を通した形でスケッチ風につづっている。対独開戦を告げるラジオ放送、唐突に吹き鳴らされる空襲警報、庭先に作られた防空壕、募兵所に群がる男たち、疎開列車、街の空に点在するバルーン・エプロン(敵機の侵入を妨害する風船)、校長先生の奇怪な祈り(ヒトラーに悪夢をもたらして安眠を奪いたまえ)、ロンドン空爆(爆弾がエバンス夫人の家に落ちますように)、焼け跡を占拠した悪ガキの群れ、ぼくが知っている汚い言葉、爆風で吹き飛ぶ窓ガラス、爆風に苛まれる「ぼくたち」、ロンドン上空で展開する「英国の戦い」、撃墜されたMe109、パラシュートで降下してくるドイツ人パイロット、パラシュートの絹に群がるご近所の主婦、ジルバ・パーティ(15歳の姉のふくらはぎに弟が絵の具でストッキングのシームを描き込んでいく)、ビギン・ザ・ビギン、爆撃でお母さんを失った女の子、姉の夜遊び、姉と付き合っているカナダ軍の伍長、入隊した父親が持ってきたドイツ軍のジャムの缶詰、衣料品の交換所、肌を見せた少女たち、ぼくはエッチなことにも関心がある、ピクニック、お母さんの大人の悩み、火事(戦争中でも火事は起こります)、溶けてしまった鉛の兵隊、おじいちゃんの家、姉の妊娠、ぼくのおじいちゃんの四人の娘と弦楽四重奏、夏中続く川遊び。
とにかく丁寧で手抜かりのない場面作りとコミカルな演出で、戦争という異常事態がもたらした異様な興奮と緊張、そしてその瞬間に少年が味わった奇妙な幸福感を巧みに伝えている。傑作。 
戦場の小さな天使たち [VHS]

Tetsuya Sato

2012年11月17日土曜日

エクスカリバー

エクスカリバー
Excalibur
1981年 アメリカ 140分
監督:ジョン・ブアマン

ジョン・ブアマンがマロリーの「アーサー王の死」をベースにしてアーサー王と円卓の騎士の物語を2時間20分に圧縮している。黒と緑を基調にした撮影が素晴らしく異世界的な雰囲気をかもしだし、甲冑はつねにまがまがしく輝き、その対極にあって人体はもろく、そして剣と槍は血にまみれている。ニコル・ウィリアムスンのマーリンは最高。視覚的な部分ではほとんど文句のつけようがないんだけれど、かなり欲張った内容を140分に押し込んだ結果、どこもかしこもひどく急いでいるような具合になってしまったのは否めないと思う。しかもその気配が後半に入るにしたがって次第に濃厚になっていくのである。これは特に音楽に現われていて、ワグナーはぶつぎり、要所要所は流しっぱなしのオラフでつながれている。ディレクターズ・カットで4時間版とかいうのをなんとか作れないのだろうか。 


Tetsuya Sato

2012年11月16日金曜日

エクソシスト ビギニング

エクソシスト ビギニング
Exorcist: The Beginning
2004年 アメリカ 114分
監督:レニー・ハーリン

『エクソシスト』の前日談。 1949年のカイロ。聖職を辞して考古学者となっているメリン神父の前に収集家の秘書と称する人物が現われ、ケニアで発見された五世紀の教会の発掘作業に参加するように要請されるが、その教会というのは実は悪霊パズズが封印されていて、事実を知っている村人たちは教会に入るのを拒み、発掘現場の周辺ではハイエナが昼日中からうろつきまわり、宿営地でも怪事が勃発する。
話はおおむね信仰を失ったメリン神父の回心を中心に展開し、その範囲ではおおむねよくまとめられている。特にヴィットリオ・ストラーロの撮影がきれいで、土臭い空気と不穏な気配を伝えている。いくらか若いメリン神父を演じたステラン・スカルスガルドもよい雰囲気を出していたと思う。とはいえ、察するにサスペンスを付加するためであろうが、最終的に悪魔祓いへと通じる過程での登場人物の位置づけの唐突さには問題があり、構成上の大きな疑問点を生み出している。この部分をもっと正攻法で消化してシンプルにまとめていればもっとよくなったのではないだろうか。レニー・ハーリンの演出は例によってがさつさが目立つが、過去の作品に比べると腰を据えているほうであろう。 





Tetsuya Sato

2012年11月15日木曜日

エクソシスト2

エクソシスト2
Exorcist II: The Heretic
1977年 アメリカ 118分
監督:ジョン・ブアマン

前作の事件から4年が経過し、リーガンは成長している。母親の秘書とともにニューヨークのペントハウスで暮らして、精神科医に通っている。医師はリーガンの心の傷を気にしているようだが、患者本人は治療の意味を認めていない。そこへイエズス会のラモント神父が現われる。メリン神父の弟子で、ブラジルで悪魔祓いに失敗し、いささか自信を失っている。ヴァチカンからメリン神父の死因を調べるように命令されていて、まずリーガンの精神科医を訪れたのであった。医師の部屋にはランプを2つ並べた奇妙な装置が用意されている。シンクロナイザーと呼ばれるその装置を使うと、二人の人間の脳波を同調させて、一方の心を他方が覗き込めるようになる。ラモント神父はその装置を使った実験によって少女リーガンの心に善と悪が存在することを知り、加えてその悪は翼を備えた巨大な悪であることを知る。つまり悪にはパズズという名があり、4年前に祓われた筈の存在はまだリーガンの内部に巣食っていた。ラモント神父とリーガンはパズズの記憶を通じてメリン神父の過去へ、30年前のアフリカの事件へ結び付けられていく。そこでは善良なる存在が大いなる悪を呼び寄せていた。そしてリーガンは内面における対立を自覚し、ラモント神父は悪魔の翼に触れて信仰を揺るがせながらリーガンを救うためにアフリカへ旅立ち、そこで悪の連鎖を切り離す「よいイナゴ」と出会うのである。多くの場面が幻視された世界として描かれ、おそらく同じだけの時間が幻視された世界を現実のうちになぞり直すことに費やされている。なぞり直していくその手つきに見ごたえがある。
いちおう「2」を名乗ってはいるし、リンダ・ブレアーがリーガン役で出ているけれど、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』とはほとんど関係がない。監督のジョン・ブアマンがエクソシズムにほとんど関心を払っていないからで、 代わりにシンプルな善悪の対立、超能力、共感といった題材を持ち込み、媒介となるテクノロジーを持ち込むことで事実上のSF映画にしてしまっている。象徴表現や色彩設計などは『未来惑星ザルドス』から発展してきている部分が多いのではないだろうか。壮大な空間処理、イナゴの猛襲を含むよくできた特殊効果など見所も多い。傑作である。 





Tetsuya Sato

2012年11月14日水曜日

エクソシスト

エクソシスト
The Exorcist
1973年 アメリカ 132分
監督:ウィリアム・フリードキン

74年の公開当時、中学生だったわたしはこれを劇場で観て、原作ほど面白くはないと感じて帰ってきた。実を言えば原作にしても悪魔学的な蘊蓄が面白いのであって、小説として格別面白いわけではない。
で、ディレクターズカット版で見直した結果なのだが、やはり面白くなかったのである。とにかく生彩がない。たとえば娘に異常が起こるまでの、エレン・バーステインの淡々とした日常描写は苛々するほど退屈である。で、異常が起これば多少はましになるかと言うと、ならないのである。人物にも画面にも魅力がないし、なによりも文脈がない。なんとなく話を継いでいるだけ、という感じで、たとえばリー・J・コッブの刑事の扱いもひどく中途半端なのである。公開当時、「緊張感」があると評された演出も底が浅い。人物を構図の中に埋め込んで、音を消しているだけなのである。かなり退屈しながらも最後まで見て、エンディング・クレジットもちゃんと最後まで見て、そこで「チューブラーベルズ」が見事に途中でぶっちぎられていることに気がついた。たしかに切りにくい音楽だとは思うけれど、いくらなんでもあれはなかろう。わたしはウィリアム・フリードキンと相性が悪い。 




Tetsuya Sato

2012年11月13日火曜日

フレンチ・コネクション2

フレンチ・コネクション2
French Connection II
1975年 アメリカ 119分
監督:ジョン・フランケンハイマー

前作から4年。 ニューヨーク市警のドイル刑事(ジーン・ハックマン)が単身マルセイユに乗り込んでくる。シャルニエの顔を知っているのはドイル刑事だけだったからである。一方、シャルニエの方でもドイル刑事の顔を知っているので、ドイル刑事は言語ギャップと戦っているうちにシャルニエの手の者にさらわれてヘロイン漬けにされてしまう。麻薬中毒患者となったドイル刑事は警察署の前に投げ出され、一時は死線をさまよいはするが、バルテルミー刑事(ベルナール・フレッソン)ほかの努力によって一命を取りとめ、やがて体力を回復すると復讐に立ち上がる。火攻め、水攻め、激しい銃撃戦、そしてシャルニエは再び遁走に移り、ドイル刑事は宿敵を追ってマルセイユの町をどこまでも走る。息を切らしてあたりを見回し、喘ぎながら柵を乗り越え、埠頭の端を目指してなおも走り、最後には銃声が二発轟いて明らかな結末が残される。
オープニングのデザインは前作を忠実に真似ているが、そこで流れている音楽が具体的かつドラマティックな旋律を帯びていてすでに映画的であり、基調となるカメラワークもまた変わらずにドキュメンタリー調ではあるものの、そのタッチは卒業制作で優を狙うフリードキンの慎重さはなく、ひたすらに攻撃的である点で実にフランケンハイマー的なのである。フリードキンが偶発性として表現したものを、フランケンハイマーは即興性として使っている。元気がいい。妙な言い方になるけれど、B級的に盛りだくさんの内容が、B級的に収まりのいいところに収まっていて、映画としてはこちらの方が見ごたえがある。特にジーン・ハックマンの最後のあの走りっぷりがなんとも言えずにいいのである。 





Tetsuya Sato

2012年11月12日月曜日

フレンチ・コネクション

フレンチ・コネクション
The French Connection
1971年 アメリカ 104分
監督:ウィリアム・フリードキン

ニューヨーク市警のドイル刑事(ジーン・ハックマン)が相棒(ロイ・シャイダー)とともにヘロイン密売組織を追い詰めていく。売人を叩いて情報を集め、入荷の前触れを察して目や耳を凝らしているうちに怪しいフランス人シャルニエ(フェルナンド・レイ)の姿が浮かび上がり、そこで尾行を始めるとグランド・セントラル駅で素早く地下鉄に乗り込まれてまかれてしまう。まかれた上に何者かにビルの上から狙撃される。反撃に出ようとすると狙撃犯は素早く地下鉄に乗り込んで運転手に銃を突きつけるので、ドイル刑事は民間人の車を徴発して線路高架下を猛スピードで駆け抜ける。このシーンは有名。狙撃犯は射殺され、シャルニエに罠を仕掛けることに成功したドイル刑事は麻薬取引の現場を包囲するが、シャルニエは素早く遁走に移り、最後には神秘的な銃声が一発残されるだけなので、決着は続編を待たねばならない。
アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞に輝く傑作である。撮影には手持ちカメラを多用し、全体にドキュメンタリー的な手法が採用されている。慎重に準備されたショットが編集によって偶発性を帯びた現実に変貌する瞬間の数々は見ごたえがあるが、その一方、視点の多くを物語性から切り離したために、ドイル刑事の横にドキュメンタリー・クルーが控えているのではないかという余計な想像を観客に抱かせてしまう。つまりきわめてよく計算された作品である一方、その仕上がりはよくできた実録警察特番とあまり区別がつかないのである。この映画の主要な価値は、人工物であるというその一点に集約されることになるのかもしれない。つまり、力作だが、どこか空々しい。人工的に作り出された現実の中で生身の刑事を熱演したジーン・ハックマンの役者根性は素直に評価されるべきであろう。だからアカデミー主演男優賞にも輝いている。 ちなみにわたしの見解ではウィリアム・フリードキンは『エクソシスト』も同じ手法で監督しているのである。つまり、力作だが、どこか空々しい。 





Tetsuya Sato

2012年11月11日日曜日

くるみ割り人形

くるみ割り人形
The Nutcracker: The Untold Story
2010年 イギリス/ハンガリー 109分
監督:アンドレイ・コンチャロフスキー

20世紀初頭とおぼしきヨーロッパ某所(設定は1920年代のウィーンらしい)、町はクリスマスを迎えてにぎわい、メアリーも自分の家でクリスマスツリーの飾りつけを進め、そうしていると両親が出かけて、かわりにアルバート伯父が現われてメアリーと弟のマックスのために巨大なドールハウスとくるみ割り人形を運び込み、そのくるみ割り人形は夜になってメアリーに話しかけ、くるみ割り人形に誘われるままにツリーを置いた居間へ入っていくと、居間は広大な空間に変わり、人形は命を吹き込まれ、巨大化したツリーのいただきでは雪の精が舞い踊り、雪の女王の力によってくるみ割り人形は王子の姿に戻り、人間に戻った王子の口から王子の国で起こった事件が伝えられ、王子の国はねずみの軍団に占領されてねずみの王の支配下に置かれ、王子はネズミの王の母の魔法によってくるみ割り人形に姿を変えられたことが明らかにされ、王子を見張るために送り込まれたネズミの軍団の斥候はねずみの王のもとへ飛んで王子の復活を伝え、ねずみの王の母の新たな魔法によって王子は再びくるみ割り人形に姿を変えられ、ねずみの攻撃によって巨大なツリーはかじり倒され、くるみ割り人形となった王子は国を救うために出発するがねずみの王に捕えられ、メアリーは王子を救うためにチンパンジーのギールグッドとともに鏡を抜けて王子の国を訪れ、煙工場で王子を見つけて愛の力で王子を再び人間に戻し、煙工場の奴隷たちは王子の帰還を目にして暴動を起こし、ねずみの王はメアリーを捕えて宮殿へ逃げる。
チャイコフスキーの『くるみ割り人形』をベースにしたミュージカル超大作である。 フロイトやアインシュタインまで放り込んだ欲張り過ぎの脚本は整理が悪いし、編集にも難点が目立ち、アンドレイ・コンチャロフスキーの作品としては決して出来がいいとは言えないものの、エドゥアルド・アルテミエフによる編曲は美しくて楽しいものに仕上がっているし、ビジュアル面はいろいろと見ごたえがある。そしてメアリーを演じたエル・ファニング(ダコタ・ファニングの四歳下の妹)はかわいいし、パパはリチャード・E・グラントだし、ジョン・タトゥーロは微妙にアンディ・ウォーホルなねずみの王の役で現われて歌って踊る。ねずみの軍団はおおむね両大戦間のドイツ軍の軍装で現われ、これが見たまんま、ハンガリーの街並みへ乗り込んでくるところはかなりなまなましい、というか、まがまがしい。そのねずみ軍団によるぬいぐるみ大虐殺には思わず目をそむけた。




Tetsuya Sato

2012年11月10日土曜日

アメリカン・ギャングスター

アメリカン・ギャングスター
American Gangster
2007年 アメリカ 157分
監督:リドリー・スコット

1968年、ながらくハーレムを取り仕切ってきたバンピーが故人となると、その運転手で護衛で集金係であったフランク・ルーカスは自らのたくわえを吐き出して東南アジアからヘロインを直輸入するビジネスに乗り出す。フランク・ルーカスが売り出した新商品ブルーマジックはその高品質と低価格で瞬く間に非合法薬物市場を席巻し、フランク・ルーカスは成功して大物となり、マフィアとの関係を確立する。一方、ニュージャージーの警官リッチー・ロバーツは賭博の胴元を追っていてたまたま見つけた印のない百万ドルを正直に警察に届けたために仲間内で疎まれていたが、麻薬捜査班の主任に任命されて正直者の警官を集め、情報収集に励むうちにフランク・ルーカスの存在に気づく。
追うほうも追われるほうも、どちらもまじめで正直に働き、それぞれに向上心をもってそれぞれの困難に立ち向かうという『プロジェクトX』みたいな話である。最後には双方の『プロジェクトX』が合体して腐敗警官撲滅のための『プロジェクトX』に変形する。というわけで事実上の悪役は腐敗警官のジョシュ・ブローリンということになり、もちろん分相応の最期を遂げることになるのである。
精密に再現された70年前後の風俗がよい仕上がりで、それを背景にデンゼル・ワシントン、ラッセル・クロウがともに非常によい仕事をしている。二人の演技は見ごたえがあった。リドリー・スコットの演出は(ある意味いつもながらの)平板さが少々こたえるものの、全体的なカットの短さに助けられてだれ場を作るには至っていない。久々に見たアーマンド・アサンテはすっかり老人になっていたが、さすがになかなかの風格であった。ちなみに中盤、デンゼル・ワシントンが部屋に飾った恩人バンピーの写真を見て婚約者のライマリ・ナダルがキング牧師かと訊ねる場面があったけど、実はわたしもその瞬間、キング牧師だったかな、と考えていた。70年前後で黒人で立派な顔、というとそういう反応になるのである。こういう刷り込みというのはなかなかに根が深いと感心した。 




Tetsuya Sato

2012年11月9日金曜日

ワールド・オブ・ライズ

ワールド・オブ・ライズ
Body of Lies
2008年 アメリカ 128分
監督:リドリー・スコット

CIAの現地エージェントがテロ組織の指導者アル・サリームの所在を追ってイラクとヨルダンを動き回り、ヨルダンの諜報機関に嫌われてアメリカに戻り、ドバイを舞台にテロ組織をペテンにかける芝居を打ち、その作戦が事実上の失敗に終わるとヨルダンの諜報機関にはめられてテロ組織を釣り出すエサに使われ、それはもうひどい目に遭って諜報活動自体に愛想を尽かす。
CIAの、有能は有能だけど考えていることがあまりボーイスカウトと変わらないエージェントがディカプリオ、その上司で中東を忌み嫌う中近東担当主任がラッセル・クロウ、ヨルダン諜報機関の長がマーク・ストロング。
ディカプリオとラッセル・クロウをアメリカ的な独りよがりと想像力の乏しさの両極に置き、その中間に実用的な人間としてマーク・ストロングを配置することでいちおうの批評性のようなものが見えはするものの、どう考えても正体はリドリー・スコットの「現代アラブ」フェティッシュ映画であり、したがってプロットも見かけ以上のものではなく、ディカプリオにしてもラッセル・クロウにしても魅力と言えるような魅力はない。ということできわめて視覚的に構築された体系は『ブラックホーク・ダウン』とあまり変わりがないものの、やはりこの映像はすごいのである。




Tetsuya Sato

2012年11月8日木曜日

ブラックホーク・ダウン

ブラックホーク・ダウン
Black Hawk Down
2001年 アメリカ 143分
監督:リドリー・スコット

マーク・ボウデン『強襲部隊』の映画化。とはいえ、原作の緻密さや政治的な公平さはここにはない。それにモロッコで撮影されたモガンディシオの光景がどの程度リアルなのかもわからないが、いずれにしてもリドリー・スコットの目論見はファンタジックな現代アフリカ、つまり近代兵器で武装しながらも相変わらず裸足やサンダルで走り回っているアフリカを自分なりの映像表現に乗せることにあったようだ。ソマリア人の野蛮さばかりが強調され、米軍側の視点に偏った描写に終始しているという批判もあるようだが、実際に見た限りではむしろ逆のように見えるのである。米軍の無能さばかりが強調され、ソマリア人のかっこよさに偏った描写に終始していなかったか? そして現実に起こった無残な結末が、かつてテレビでも放送されたにもかかわらず、ここではことごとく迂回されているという事実が、アメリカのもろさを際立たせていたようにも見えたのである。視覚的な傷から顔を背けて心の傷をいじくっている連中と、サンダル履きでRPGをぶっ放している連中と、どっちがかっこいいかと聞かれれば、わたしは迷わずに後者だと答えるのである。少なくとも自分が何をしているのか、理解しているように見えないか? というわけでイギリス人リドリー・スコットも、同じような感想を抱いたのではないだろうか? 
米軍側の若者たちのお定まりのようなナイーブさに対して、モガンディシオの男たちのスタイリッシュな振る舞いはどうだろうか。突進してくるブラックホークの一団を目にして、黒い連中が何を始めたかを見ていただきたい。携帯電話でぱっぱと連絡をして、よっしゃあという感じで出入りに繰り出していくのである。実に魅力的に撮られていた。一方、監督は米軍に対して通り一遍の視線を向けるだけで、実はほとんど関心を抱いていない。同じような髪形をしているから、という理由があるにしても、まるで個体識別ができないのである。誰が誰だかわからないし、戦闘シーンの間でドラマらしきものに入り込むと、これが情けないほど退屈である。製作側の政治的主旨と、監督の個人的な趣味がまるで噛みあっていないところにおそらくこの映画の失敗がある。 





Tetsuya Sato

2012年11月7日水曜日

ロビン・フッド

ロビン・フッド
Robin Hood
2010年 アメリカ 140分
監督:リドリー・スコット

十字軍遠征から帰還の途中、リチャード獅子心王が城攻めの戦闘で戦死し、王冠を運ぶ騎士ロクスリーの一行はフランス王フィリップと気脈を通じたゴドフリーの待ち伏せにあい、王冠はそこへ通りかかった弓兵ロビン・ロングストライドが預かることになり、ロビン・ロングストライドはロクスリーを名乗ってロンドンを訪れてリチャード獅子心王の死を知らせ、アリエノール・ダキテーヌの手によって王弟ジョンに王冠が与えられ、そこまででもすでに絵に描いたように暗愚であることがはっきりとしているジョン王はさっそく存在価値を発揮して増税を宣言すると親友ゴドフリーに軍勢を与えて諸侯を脅し、ロビン・ロングストライドはロクスリーとの約束を守ってノッティンガムを訪れ、ロクスリーの剣をロクスリーの父ウォルター・ロクスリーの手に渡し、ウォルター・ロクスリーは領地を守るために息子の死の隠蔽を望み、ウォルター・ロクスリーの希望を受け入れたロビン・ロングストライドはロクスリーの妻マリアンの顰蹙を買い、一方ゴドフリーはフィリップ王が派遣したフランス兵を配下にしたがえ、各地で暴虐をふるって反乱を誘い、反発した諸侯がジョン王に対して決起すると、それを機と見たフランス王の軍勢がイングランド侵攻にとりかかり、事実を知ったジョン王は諸侯に対して忠誠を要求するが、要求するだけで譲歩しないので諸侯はただ反発し、そこへ出生の秘密をウォルター・ロクスリーから知らされたロビン・ロングストライドが現われて王と諸侯の前で演説をして、イングランドを危機から救うために軍勢をまとめて上陸してきたフランス軍と対決する。
つまりロビン・フッドがシャーウッドの森にひそむことになる前の状況を扱っていて、ジョン王、代官、マリアン、タック修道士、さらにシャーウッドの盗賊たちと必要なキャラクターは一式登場するものの、やっていることは必ずしも「ロビン・フッド」ではない。どうやら「ロビン・フッド」そのものよりもやりたいことが別にあって、それは冒頭の攻城戦であり、クライマックスの英国本土上陸作戦であり、そうした場面をつなぐために「ロビン・フッド」のフレームが遠まわしに採用されているように見える。ではそれが悪いかというとそういうことはまったくなくて、つまり見ているこちらも「ロビン・フッド」に格別の関心があるわけではないし、いずれにしてもラッセル・クロウはつまるところラッセル・クロウにしか見えないということであれば、リドリー・スコットがデザインした戦闘シーンや再現された十二世紀に見ごたえがあればそれでいいということになり、そして見ごたえがある以上、まったくの話、文句はない。実際、戦闘シーンのディテールとシャープなショットの積み重ねは涙ものの仕上がりである。
ところでフランス軍のあのモダンな上陸用舟艇は実在したものなのか。あの形状で凌波性のある船を当時の技術で作るのは難しいのではあるまいか。隙間にまいはだを詰めてタールで固定すれば、とか考えてみたが、ちょっと怪しい。 





Tetsuya Sato

2012年11月6日火曜日

キングダム・オブ・ヘヴン

キングダム・オブ・ヘヴン
Kingdom of Heaven
2005年 アメリカ/スペイン/イギリス 145分
監督:リドリー・スコット

十二世紀末、エルサレム王国。病身のボードワン四世はサラディンとの条約を守って平和を保とうと試みていたが、その足元ではテンプル騎士団が武力挑発を繰り返している。やがてボードワン四世の死後、ギー・ド・リュジニャンが王位を継いでサラディンの軍勢に戦争をしかけ、ところがアホウなので見事に敗退して捕虜となり、騎士ゴドフリー殿の息子で鍛冶屋のバリアンがエルサレムの防備に励むことになるのである。
鍛冶屋のくせにむやみと強いバリアンがオルランド・ブルーム。あいかわらずエルフのまんまと言えばまんまだが、そこにリドリー・スコットが巧みにウェザリングをほどこしたので、それなりに見える。その父親のリーアム・ニーソンはつまりリーアム・ニーソンであったが、その脇にいた宗派のわからない修道騎士のデヴィッド・シューリスがなかなかにいい感じで、これが後半ほとんど姿を消してしまうのが少々寂しかった。ボードワン四世は仮面で顔を隠したエドワード・ノートン、その下でまっとうな家臣をしているのがジェレミー・アイアンズ、ほとんどひとりでいいとこ取り、本編最大の悪役ギー・ド・リュジニャンの子分でテンプル騎士団の騎士ルノーがこんな役ばっかりじゃないか、という感じのブレンダン・グリーソン、ということで役者は全体によい具合にまとまっていて、話はそれなりにテンポが速く、登場人物の立ち位置は善玉も悪玉も脇役も終始一貫しているので余計な逡巡をしている暇がなく、戦闘シーンは大迫力で、殺陣はそれなりに見栄えがする(このあたり、『グラディエーター』から遥かに進化している)し、攻城戦は感動もので、特に攻城塔のひっくり返り方には涙が出た。そして視覚的には信じられないくらいに豊饒な作品であり、つまり、ストーリーがどうこう、というよりも、そういうものが作りたかった、ということになるのではあるまいか。 




Tetsuya Sato

2012年11月5日月曜日

グラディエーター

グラディエーター
Gladiator
2000年 アメリカ 155分
監督:リドリー・スコット

冒頭のゲルマニアでの戦闘シーンは素晴らしい出来栄えである。まず森の木が伐り払われている。ローマ軍の陣地は実にしっかりと構築されていて、カタパルトまで登場する。そして戦闘が始まると、これがいかにもローマ的な近代戦なのである。頭の中でこれだよ、これ、と呟きながら感心していた。純然たる戦闘シーンはこれだけで、以降はすべて闘技場での戦いになるが、いずれの場面も目の保養になる仕上がりである(なにしろペルシア風の鎌まで備えた戦車が何台も登場して派手にひっくり返る)。
問題があるとすればそれ以外の部分だ。ドラマ部分はないも同然で、人物造形はすこぶる浅い。というよりも確信犯でそうしているように見えるところがある。敵役のコモンドゥス帝は間違いなく小者であったし、例によって元老院がどうしたこうしたという話も出てはくるけれど、コモンドゥス帝時代の元老院が事実としてそうであったように話以上のことは何もない。共和制ローマでは闘技場が寒いし、今更カリギュラやネロはしたくない、ティベリウスではローマの話にしにくいし、クラウディウスは死にかけている、ハドリアヌスは扱いにくいで前から順番に消去法で消していって、それで残ったのがコモンドゥスで、いや、こいつなら闘技場マニアでうってつけだ、ということで最初から話はどうでもよかったのではあるまいか。実際、映画のコモンドゥスにはちょっぴりカリギュラの味付けがされている。そう思うとローマそのものがひどく妙なのも納得がいくのである。この映画に登場するローマは歴史的な考証の結果としてのローマではなく、リドリー・スコットがかっこいいと思ったローマなのではなかろうか。佐藤亜紀の指摘によれば、登場人物が着ている衣装は18世紀あたりのローマ史劇の衣装に酷似しているという。実際、わたしもコモンドゥスがタイを18世紀風に巻いているのを見てちょっと不思議に思った(で、これがまたかっこよかった)。ローマ軍兵士の服装もかなり演出されていたようで、本当ならばもう少し貧乏臭かった筈なのである。CGで作り上げられた美しいローマの風景はもちろん一見の価値のあるものだが、このローマはローマ大賞のローマに見える。つまり18世紀から19世紀にかけてエコール・ド・ボザールで展示されたローマの復元絵画によく似ているのである。
どうもかなりの居直りがあるようで、だから地理的な説明も大幅に手を抜いている。マクシムスがゲルマニアのローマ軍陣営から逃れて自宅に走るという場面があるけれど、描写を見る限りでは山を二つ三つ越えているくらいにしか見えない。ところが史実どおりに捉えると出発点はウィーンだった筈であり、後の説明から判断する限りでは将軍の家はスペインにあったようなのである。いったい直線距離で何キロあるんだ? しかもこの家のある土地というのが現在のトスカーナ地方そっくりに見える上に、続いて奴隷になっている場面では北アフリカそっくりの光景が展開する。見ているこちらはウィーンからトスカーナに移動して、それがどうして今はリビアにいるんだと大混乱を起こすことになるわけだが、後ほどの字幕による説明でリビアに見えた場面は実は南スペインであったと判明することになる。というわけで多少の不満はあるわけだが、余計な部分は気にしないことにしてかっこいいローマでかっこいい闘技場の話をしたい、という目論見はよくわかるのである。だったらいっそ、宮廷の場面や元老院の場面ははしょってくれてもよかったのではないかと思うのだが、やはりそうはいかないのであろう。そうはいかないから話を作ろうとするのだが、その話がうまく立ち上がらない。聖書ネタを避けようとすれば、ローマという題材は自動的にモダンへと走り込むことになる。うっかりするとウォール街の株屋の話とさして変わらなくなる。実際、『グラディエーター』はどこかのフットボール・チームの話に置き換えてもそのまま通用する筈だ。全然エキゾチックにならないのである。やはり『ガリア戦記』あたりを題材にもってきて、主人公をローマ人以外にした方が話の展開が楽になるのではあるまいか。





Tetsuya Sato