2012年10月3日水曜日

クローバーフィールド

クローバーフィールド
Cloverfield
2008年 アメリカ 85分
監督:マット・リーヴス

マンハッタンに住むロブ・ホウキンズは仕事の関係で日本に移住することになり、そのお別れパーティがロブの自宅で開かれるが、関係のあった女性ベス・マッキンタイヤが男連れで現われたことでロブとベスのあいだに悶着が起こり、ベスはパーティから早々に引き上げ、その様子を見たロブの兄ジェイソンはロブを諭す。兄の意見を受け入れてロブが心を入れ替えていると、突然地震のように建物が揺れ、彼方に見える建物では爆発が起こって破砕物が炎の尾を引きながら飛来する。パーティ客は慌てふためいて建物から逃れ、路上に出たところで建物と建物のあいだに巨大な生物を目撃し、群集に混じってブルックリン橋へと避難するが、橋は何者かにに襲われて倒壊、ロブは携帯電話でベスの危機を知り、助け出すために来た道を戻る。
危険なところへ戻るのだから一人で戻ればよさそうなものを、全編をハンディカメラの映像で構成するという面倒な第一原則が存在している関係で、カメラを回している男、カメラで前で話す男女、といった必要を満たせる人数で戻らなければならないのである。そして状況がどうであろうと何がなんでもカメラを回し続ける必要があるので、カメラを回している男はいくらか鈍感である必要があり、そうして回っているカメラの前で周囲の状況に負けずに反応を示す必要もあるので、カメラの前で話す男女もまたいくらか鈍感で声が大きくて口数が多くなければならないのである。つまり鈍感で声が大きくて口数の多い人間が得体の知れない状況に巻き込まれて走り回っているわけで、そうすると見ているこちらは、そういうずさんで要領を得ないものを揺らしたり斜めにしたり大写しにしたりするために、映画的な文法をわざわざ放棄したことの意味について多少は考えたくなってくる。
都市空間を動き回る巨大な怪物、それを迎え撃つ海兵隊、といったおいしい絵が豊富に登場するものの、消化はあまりよろしくない。「アトラクション映画」という言い訳も耳にしているが、アトラクションだとすれば、ストーリーや人物関係は余計であろう。エンディングで流れる『クローバーフィールド』序曲「がおー」のどことなく伊福部的な旋律を聴いていると、とにかく怪獣映画が好きでやってるんだなあ、というほほえましい気持ちになってくるが、記録映像的な処理についてはスピルバーグやグリーングラスあたりがすでに多様な先例を残しているわけで、ここで「一般市民が撮った不器用な映像」の「模倣」にまで後退する理由がよくわからない。見やすい見にくいという問題以前に、まず単調になるのである。手持ちカメラの映像という選択をするにしても、そこに多様性を与える方策がどこかにあったのではあるまいか。





Tetsuya Sato