2012年10月31日水曜日

トロピック・サンダー

トロピック・サンダー
Tropic Thunder
2008年 アメリカ/ドイツ 107分
監督:ベン・スティラー

イギリス人の新人監督が俳優のわがままをまとめられない(という話を聞くと、わたしはマーロン・ブランド「主演」の『D.N.A.』を思い出すが)ためにベトナム戦争ものの映画の撮影が難航し、鬼のようなプロデューサーに脅された監督は無責任な原作者の入れ知恵にしたがい、ジャングルの無数のカメラを設置、そこへ俳優だけを放り出し、それでどうにかサバイバルな状況を作り出して無理矢理に演技をさせようとするが、開始間もなくフランス軍の古い地雷を踏んで監督は消滅、それをハリウッド製の特殊効果だと思い込んだ俳優たちは台本どおりにジャングルを歩き始めるものの、すでに黄金の三角地帯に踏み込んでいる。
ベン・スティラーが落ち目の状態からの起死回生をはかって最近はヒューマンドラマで知的障害者を演じたアクションスター、ジャック・ブラックが『ナッティ・プロフェッサー』をさらに下品にしたような(もちろんニューライン製作の)映画でおならをして笑いを取っているコカイン中毒のコメディアン、ロバート・ダウニーJr.は禁断の愛に目覚めた修道士の苦悩を描く(当然、フォックス・サーチライト製作の)映画でトビー・マグワイアと競演していたりするオスカー俳優、ニック・ノルティは嘘でいっぱいの原作者、禿で眼鏡で、ほとんど悪魔のようなプロデューサーがトム・クルーズ、ベン・スティラーのエージェントがマシュー・マコノヒー、というすごいキャスティングのコメディで、最後にはジョン・ヴォイトも顔を出し、気がつかなかったけれど、どこかにジェニファー・ラヴ・ヒューイットも出ていたらしい。
戦争映画の撮影では冒頭からどこかで見たようなシーンがやまほども登場し、麻薬組織に捕まったベン・スティラーはオスカー級の知的障害者演技を強要されておのれを失い、みんなで一緒に助けにいくと、麻薬組織の喝采を浴びて事実上のカーツ大佐と化している。しかも、その状態から救い出すために説得をすると、説得しているロバート・ダウニーJr.のほうが、そもそもややこしい役作りをしている関係もあって、おれは誰だという話になる場面は最高に笑えた。麻薬組織のボスがブランドン・スー・フーという子役で、これがまたよろしい。俳優の監督が俳優のフラストレーションをそのまま叩きつけたような妙な映画だが、非常によく出来ていると思う。 






Tetsuya Sato

2012年10月30日火曜日

Red/レッド

Red/レッド
Red
2010年 アメリカ 111分
監督:ロベルト・シュヴェンケ

CIAの元職員フランク・モーゼスは電話で話をするだけの年金局の職員サラ・ロスに恋心を抱き、サラ・ロスと出会うためにひそかに準備を進めていたが、そこへ重武装した刺客の集団が襲いかかってくるので、そのことごとくを返り討ちにして、サラ・ロスにも危険が降りかかるのを恐れてサラ・ロスの家を訪れ、サラ・ロスを事実上拉致すると自分が襲われた理由を探るためにかつての仲間ジョー・マターソンが暮らす老人ホームを訪れ、1980年代初頭にグアテマラで起こった事件に関与した者が殺されていることを知り、同じように命を狙われているかつての仲間マーヴィン・ボックスの安否を確かめ、かつての敵イヴァン・シマノフの助けを得てCIA本部への潜入を果たし、やはり引退しているMI6の暗殺者ヴィクトリアを仲間に引き入れると武器商人アレクサンダー・マニングを締め上げ、一連の事件の背後に副大統領の存在があることを知ると、事件を終わらせ、CIAの手に落ちたサラ・ロスを救出するために副大統領を襲撃する。
94歳のアーネスト・ボーグナインがCIAの資料室で管理人をしているのである。これが実に尊い姿であった。頭のおかしいマーヴィンに扮したジョン・マルコヴィッチがおもにばかなことをやり、ヘレン・ミレンがおしとやかに重火器を撃ちまくり、モーガン・フリーマンもうれしそうにばかなかっこうで現われて、ロシア人に扮したブライアン・コックスがいい役回りでおいしいところを取っていく。登場場面は少ないものの、リチャード・ドレイファスの悪役ぶりはさすがであろう。車の運転席から一瞬の動作で降り立ってピストルの狙いをつけるブルース・ウィリスは実にシャープでかっこいいが、火力優先に傾いたアクションシーンは全体に統一感を欠いている。
『フライトプラン』同様、ロベルト・シュヴェンケの演出はとりあえずまとまってはいるものの、どこか野暮ったくてすっきりとしない。ある種のおばか映画としては決して悪くないものの、おばかの部分を出演者にまかせすぎているのではあるまいか。ところで若いCIA職員ウィリアム・クーパーに扮していたカール・アーバンは『レジェンド・オブ・ウォーリアー』で主役をやっていたひとなのであった。 




 

Tetsuya Sato

2012年10月29日月曜日

特攻大作戦

特攻大作戦
The Dirty Dozen
1967年 アメリカ・イギリス 145分
監督:ロバート・アルドリッチ

1944年のロンドン。アメリカ陸軍のライズマン少佐(リー・マーヴィン)はあまり規律を守らないということで問題視されて転属先すら見つけられない有様になっていたが、そこへウォーデン将軍が現われて秘密作戦に志願するようにと説得する。12名の凶悪犯を再訓練してDデイ前夜に敵後方に夜間降下し、敵の将校を可能なかぎりいっぱい殺すというのがその秘密作戦で、ライズマン少佐は作戦立案者の正気を疑うが、もちろん選択肢は与えられていない。
さて、少佐はその12名(テリー・サバラス、ジョン・カサヴェテス、ドナルド・サザーランド、チャールズ・ブロンソンなどが含まれている)を引き取って訓練らしきことをおこなうが、どうやらその内容は高度な秘密ということになっていて、実は観客の目にもほとんど触れることがない。そういう訓練がだらだらと半年も続いて、ライズマン少佐に敵対的なブリード大佐(ロバート・ライアン、ちなみにライズマン少佐以下を暖かく見守っているウォーデン将軍がアーネスト・ボーグナイン)を演習でやっつけるだけのために貴重な上映時間が消費され、やっと作戦開始ということになってドイツ占領下のフランスへと降下していく。高級将校専用のシャトーがあって、そこを襲撃するのである。
まずライズマン少佐とチャールズ・ブロンソン扮するもう一人がドイツ軍将校の制服で中へ入り、そのもう一人はドイツ語が話せるけれど、実は読み書きができなかったという裏があって、目の前に宿帳を出されたりするとサスペンスはいやおうもなく盛り上がる。それでも作戦は着々と進行し、バルコニーからロープが投げ落とされ、アメリカ兵がロープを使って中へ入る。すべては順調なように見えたが、テリー・サバラス扮するマゴットが室内で娼婦と遭遇したことで、すべては崩壊してしまうのである。
マゴットは純潔を誇る神の道具で、娼婦と見れば殺したくなるという習性があった(なんでそんなやつを連れていくのか)。マゴットは背後から近づいて娼婦の口を押さえ、ナイフを突きつけて叫んでみろと声をかけ、その状態でわざわざ廊下へ進んでいく。娼婦は助けを求めて叫びを上げるが、ドイツ軍の将校たちは上品なひとばかりなので、あれは愛の叫びだと勘違いして誰一人として駆けつけようとしない。マゴットは娼婦を刺し殺し、何事かと近づいた仲間のアメリカ兵に向かって発砲する。銃声が轟き、上や下への大騒ぎになり、ドイツ軍将校たちは空襲警報も鳴っていないのになぜか地下の防空壕に向かってひた走る(いちおうは戦闘員であろうが)。そこへライズマン少佐が駆け寄って防空壕の扉を外から閉めてしまうので中のひとたちは出口を失い、あとは報せを聞いて駆けつけたドイツ軍との交戦があり、防空壕の爆破があり、突っ込みどころも満載で、でも、どこまでいっても軍事作戦に見えてこないのは、やはりロバート・アルドリッチという監督の好みの問題なのであろうか。考えてみると『攻撃』も今一つ軍事作戦には見えなかったし、変な戦車が登場したし、変な兵器が平然と登場するという傾向はずっとあとの『合衆国最後の日』まできても変わっていない。あまり関心がないのであろう。





Tetsuya Sato

2012年10月28日日曜日

北国の帝王

北国の帝王
Emperor of the North
1973年 アメリカ 122分
監督:ロバート・アルドリッチ

1933年、大不況時代のオレゴンを舞台に列車ただ乗りを自らの使命と心得る放浪者(ホボ)と、ただ乗りを断固として排除しようとする車掌との戦いを描く。ホボの中でもただ乗りの技術に長じて「帝王」と呼ばれるのがリー・マーヴィン、そしてホボの間で鬼のように恐れられている凶悪な車掌がアーネスト・ボーグナイン、で、リー・ マーヴィン になんとなくくっついてくる生意気な若造がキース・キャラダインという取り合わせになっていて、クライマックス、オレゴンの山間をのどかに走るちっぽけな山岳鉄道の無蓋貨車で、延々と繰り広げられる文字どおりの死闘はやっている役者の面構えとあいまって、ちょっと尋常ではないような迫力になっている。ただ、やっぱりなんといってもこたえられないのはラストであろう。最後に一発ナマを抜かしたキース・キャラダインに向かって、「おまえには人間の心がわからねえ」って叫んでぶっ飛ばすリー・ マーヴィン は最高にかっこよかったりするのである。 
遅ればせながらアーネスト・ボーグナインの冥福をお祈りする。




Tetsuya Sato

2012年10月27日土曜日

イングロリアス・バスターズ

イングロリアス・バスターズ
Inglourious Basterds
2009年 アメリカ/ドイツ 153分
監督・脚本:クエンティン・タランティーノ

ドイツ占領下のフランスでユダヤハンターの異名を取るSSのハンス・ランダ大佐は農家の床下にひそむユダヤ人の一家を殺戮し、アメリカ軍のアルド・レイン中尉はユダヤ系の兵士とともに民間人の姿でフランスに潜入してドイツ兵を次から次へと血祭りにあげ、恐怖におびえるドイツ兵の声はヒトラーに耳にも届き、それから数年を経てすでに連合軍がフランスに上陸したころ、ハンス・ランダ大佐の手から逃れたユダヤ人の娘ショシャナ・ドレフュスは名前を変えてパリで映画館の持ち主となり、そのショシャナ・ドレフュスに関心を抱いたドイツ兵の説得でヨゼフ・ゲッペルスは戦意高揚映画『国民の誇り』のプレミアをショシャナ・ドレフュスの映画館でおこなうことに決め、プレミアにはドイツ政府高官がそろうことを知ったショシャナ・ドレフュスは映画館ごと第三帝国の中枢を抹殺しようとたくらみ、まったく同じことを考えたイギリス軍はドイツ語に堪能な将校をアルド・レイン中尉のもとへ送り込んで作戦を進め、ところが問題が発生したせいでまったくドイツ語が話せないアルド・レイン中尉自らが映画館へ乗り込むことになったため、ドイツ人はイタリア語を話せないという入れ知恵を受けて中尉はイタリア人という設定を選択するが、中尉の前に現れたハンス・ランダ大佐は英語に加えてイタリア語にも堪能なので間もなく正体を暴かれるものの、大佐には大佐なりの思惑があり、それはそれとしてショシャナ・ドレフュスの計画はすでに自動的に進行している。
全体は五部構成で、シチュエーションとしては『特攻大作戦』に似ていなくもないが、乱雑な話の散り方からするとやはりマカロニ系の戦争映画の構成に近く、そしてかなりの部分がタランティーノ的なダイアログで占められている。
ダイアログはおおむねよどみがないし、いろいろと作り込まれてはいるものの、不要に長いという印象は例によって否めない。こちらとしてはもう少し台詞を削って、そのかわりにイングロリアス・バスターズの非道な活躍を見せてほしかったような気がしないでもないが、これはやはり戦争映画というフレームを借りたタランティーノ映画なので、そういうことにはならないのであろう。そしてタランティーノ映画としては、かなりおもしろかったということは認めなければならないであろう。バットを握ってばかをやるイーライ・ロスをはじめとして出演者が充実した仕事をしている。ハンス・ランダ大佐を演じたクリストフ・ヴァルツ、ショシャナ・ドレフュスを演じたメラニー・ロランはタランティーノのあからさまな演出もあって記憶に残る。ただ全体を五部構成に見せるという仕組みにどの程度効果があったかは疑わしい。不要な冗長性を糊塗するためのからくりなのではあるまいか。なお劇中映画『国民の誇り』は1944年ごろのドイツ製戦意高揚映画とは思えないモダンなショットで埋まっていて、あまり本物らしくない。




Tetsuya Sato

2012年10月26日金曜日

グラインドハウス

グラインドハウス
Grindhouse
2007年 アメリカ 191分
監督:ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノほか

まず『マチェーテ』の予告編。メキシコ人労働者が罠にはめられ、九死に一生を得て復活すると復讐を求めて大暴れする、という映画らしい。主演はロドリゲス映画の常連ダニー・トレホ。ミニガン搭載バイクにまたがってジャンプしていた。それから「本編です」というお知らせが入り、『プラネット・テラー』。
化学兵器だか生物兵器だかがばら撒かれ、住民が怪物化してひとを襲い、生き残った人々が武器を手にして血路を開く、というよくある話をロバート・ロドリゲスが無数のガジェットで飾り立てている。ばら撒く軍人がブルース・ウィリス、戦うゴーゴーガールがローズ・マッゴーワン。右足アサルトライフル(グレーネードランチャー付き)というのは面白いけれど少々アイデア倒れであろう。
続いて予告編が三つ。ロブ・ゾンビ担当の『ナチ親衛隊の狼女』はタイトルどおりで、ナチが秘密実験で狼女を作っていて、雰囲気は70年代の収容所系ポルノそのまんま、お約束どおりにウド・キアがいつもの調子で顔を出し、シビル・ダニングまで登場するという徹底ぶりである。ニコラス・ケイジのフー・マンチューは笑えた。『ショーン・オブ・ザ・デッド』のエドガー・ライトが担当した『Don't/ドント』は60年代心霊ホラーの雰囲気で、三人の男女が怪しい屋敷を訪れ、それをしたり、あれをしたり、するので、それをするな、あれをするな、とナレーションがしつこく警告する。全体を通してここが一番ひねりがあった。イーライ・ロスが担当した『感謝祭』はいわゆるゴア・ムービーのストレートな再現である。ついでに劇場の隣にあるレストランのわびしいCMが挿入され、本編二本目がクエンティン・タランティーノの『デス・プルーフ』で、スタントカーを使って女性を激突死させる変態男が田舎道で70年型ダッジ・チャレンジャーを襲ったら、乗っていたのが本物のスタントウーマンで、反撃された上に車をつぶされ、引きずりおろされて袋にされる。仕返しされて泣きながら謝る変態男がカート・ラッセル、スタントウーマンが本人役のゾーイ・ベル。
『プラネット・テラー』はまじめに作られた三流映画であり、『デス・プルーフ』はふつうに作られたタランティーノの映画であり、このずれは出発点の違いであろう。架空の映画の予告編がついたB級映画二本立て、という趣向はスタンリー・ドーネンの『ブルックリン物語』を思い出させるが、スタンリー・ドーネンがそれなりに高いところからもっぱら懐古していたのに対し、こちらは相変わらずの泥遊びのように低いところに肩まで浸かって、反省も退屈もしている気配がまったくない。『グラインドハウス』というタイトルで一個の作品にくくられているわけでもなく、グラインドハウスという『劣悪な』上映環境自体を復元することに主眼が置かれ(だから、ということなのか、どちらの映画も一巻ずつ欠けている)、それはそれでまったく無価値であるとは思えないが、その結果としての二本立ては愚直なまでに文字通りの二本立てであって、そこから差異を見出す目論見もない。視線がとにかく低いのである。ロバート・ロドリゲスの子供じみた茶目っ気は嫌いではないし、タランティーノも本人の出過ぎを除けば、作品自体には迫力があった。そしてわたしは自分でしばしばそうするように今回も低い視線で楽しんだものの、こんなに低いところで口を開けて喜んでいて、本当にそれでいいのか、という気持ちは終始どこかで感じていた。






Tetsuya Sato

2012年10月25日木曜日

王女メディア

王女メディア
Medea
1969年 イタリア 110分
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ

エウリピデスの『メディア』の翻案。第一部。まずケンタウロスがそれまでのお話を説明し、成長したイアソンはイアルコスを訪れて伯父に王位の返還を求めるが、伯父はその条件として金羊毛の皮を要求し、そこでイアソンは遠くコルキスを訪れて金羊毛の皮とコルキスの王女メディアを奪う。ところが伯父は王位の返還を拒み、イアソンはメディアと同衾する。第二部。十年後。まずケンタウロスがメディアを古代の女として位置づけ、イアソンはコリントスの王女との結婚をたくらむので、イアソンに捨てられたメディアはコリントスの王女を魔法で殺し、イアソンとのあいだに出来た二人の子供を火に投げ込み、恐れを抱くイアソンに向かって状況は回復不能であると告げる。
メディアが「古代の女」であり、これにイアソンが現代や合理性として対置されているとすると、最大の欠陥はパゾリーニの趣味にあって、つまりパゾリーニが描くこのイタリアの男たちはいつものように田舎じみていて、現代や合理性を表わしているようにはとうてい見えてこないのである。ただの浮気男というところか。メディアも格別、魔女には見えない。どちらもひどく空疎なのである。結局、イアソンにしてもメディアにしても何かをしているように見えないので、だから両者の関係がそれほどこじれているようにも感じられない。独りよがりの話法と演出そのもののボルテージの低さが原因であろう。ロケ地の選択や衣装のデザインには目を見張るものがある一方、撮影は全体に素人臭くてロケ地の選択や衣装のデザインを生かしていない。 



Tetsuya Sato

2012年10月24日水曜日

アポロンの地獄

アポロンの地獄
Edipo Re
1967年 イタリア 104分
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ

ソポクレス『オイディプス王』の翻案。
テーバイの王ライオスが実子殺しを決意するまでは現代イタリアの田園風景が背景に使われ、羊飼いがオイディプスをけもののように棒にくくって運ぶ場面で荒涼とした砂漠が現われる。以降、コリントスもテーバイもイエメンの古い城塞都市でのロケとなるが、オイディプスがテーバイを追われると再び画面には現代の北イタリアが映しだされる。プロットはおおむねソポクレスに沿っているが、冒頭におけるライオス王の恐れはデルポイの神託によって与えられるものではなく、妻の愛を奪った赤ん坊の嫉妬心として描かれる。神託の円環構造が最初の段階ではずされてしまうのである。どうやら根本に無条件の父子の対立が置かれているような気配があって、だからであろうか、ライオス王の一行をオイディプスが殺戮する場面がやたらと長くてどたばたとしている。冒頭で神託をはずしたのであれば、オイディプスの選択からも神託による予言をはずすべきであったと思えるが、それをしなかったのは察するに展開が面倒になるからであろう。ただ放浪する、婚姻や裸体の女から目を背ける、という図式の上でスピンクスのあの問い掛け、つまりおまえの心の云々、という問い掛けが実現していれば、オイディプスの行動により人間的な影を投げかけることもできた筈だ。咀嚼の悪さと独りよがりがひどく目立つ。謎掛けが監督個人のリビドーに根差しているとするならば、そんなことで謎掛けをされる観客がたまらない。
巨木を一本すえただけの神託の場のデザインは面白い。ロケ地の選択や衣装のデザインには目を見張るものがある一方、撮影は全体に素人臭くてロケ地の選択や衣装のデザインを生かしていない。 


Tetsuya Sato

2012年10月23日火曜日

奥様ご用心

奥様ご用心
Pot Bouille
1957年 フランス・イタリア 118分
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ

ジェラール・フィリップ扮するオクターヴ・ムーレは南仏からパリへ出てきてショワズル通りのブルジョワが住むアパートに下宿し、エドワン夫人が経営する流行品店ボヌール・デ・ダムに職を得る、と言う間もなく同じアパートの三階に住むジョスラン家の次女に粉をかけ、隣の主婦にも粉をかけ、二階に住む家主のヴァブル家の長男の妻にも粉をかけ、もちろんエドワン夫人にも粉をかけ、ジョスラン家の次女ベルトがヴァブル家の次男に嫁ぐとそれを早速自分の部屋に引きずり込んでよろしくやる。
エミール・ゾラ『ごった煮』の映画化である。かなり込み入った原作を大幅に刈り込み、それでも要所はしっかりと押さえて話をつないでいく力量はたいしたものだが、結果として出現する状況の安易な展開を、なにしろ主人公がジェラール・フィリップなので、というその一点で説明するという無条件の割り切りが平然とおこなわれており、これは、なにしろ主人公がジェラール・フィリップなので、無条件の説得力を持つという点で観客に反論を許さない強さがあるものの、そして鉄の女エドワン夫人にダニエル・ダリューを当てることで適当に弱くしておく抜け目のなさも憎めないが、だからといって受け入れられるものではなかろう、と思うのである。ともあれ、ジェラール・フィリップのオクターヴ・ムーレはそれらしかった。第二帝政時台のパリのアパルトマンの描写は興味深い。 


ごった煮 (ルーゴン・マッカール叢書)
Tetsuya Sato

2012年10月22日月曜日

ごった煮

エミール・ゾラ『ごった煮』(小田光雄訳、論創社)

『ボヌール・デ・ダム百貨店』の社長オクターヴ・ムーレの修業時代の話である。とはいえ内容はとあるブルジョア向けアパルトマンを舞台にそれぞれのフロアでそれぞれの家族の人生模様がそれぞれにはしたなく展開するという形式で、正体はかなりコケティッシュなコメディになっている。キャラクターはどれも立ちまくりで、なかでも娘の結婚のためならば手段を選ばずに居直りまくるジョスラン夫人は相当にすごい。そして建物の表側で紳士淑女が金や下半身の問題で夜ごとに頭を虚ろにすれば、中庭の側では女中や召使いが浅ましい罵りあいを朝ごとに繰り返す有様が執拗に描かれ、コーラス付きの華やかな夜会の背後では暗がりに隠れて嬰児殺しがおこなわれている。ゾラの容赦ない流儀によってブルジョアが滅亡していくのである。それにしても状況の大半を一つの建物の上から下までにぎっしりと詰め込み、けっこうな数の登場人物を破綻もさせず、無駄遣いもせずに、効率的に処理していく知力と体力はたいへんなものであろう。

ごった煮 (ルーゴン・マッカール叢書)
Tetsuya Sato

2012年10月21日日曜日

貴婦人たちお幸せに

貴婦人たちお幸せに(1943)
Au Bonheur des Dames
監督:アンドレ・カイヤット

19世紀中葉のフランス。両親の死後、ドニーズは二人の弟を連れてパリに住む叔父ボーデュを訪れる。ボーデュは婦人向けの服地の店を営んでいたが、向かいに出現した巨大な百貨店ボヌール・デ・ダムによって商売を圧迫されていた。ドニーズは生活のためにボヌール・デ・ダムの売り子となり、辣腕経営者ムーレは店舗拡張の資金をデフォルジュ夫人に求め、デフォルジュ夫人がムーレとの逢引を求めると、ムーレはいつの間にかドニーズに惹かれていて、それを嫉妬したデフォルジュ夫人がドニーズの解雇を画策すると、ムーレの気持ちが動かないのでデフォルジュ夫人のたくらみは潰え、さらにちょっとした男女関係の勘違いがあったあとでムーレとドニーズが結ばれる。そしてそういうことが起こっているあいだに叔父ボーデュの店はいよいよ傾き、番頭は逃げ出し、娘は死に、店は差し押さえにあって、ボーデュは馬車に潰される。
エミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』の映画化である。ドイツ占領下のフランスという特殊な状況で製作されていて、おそらく暗い雰囲気を避けるためであろう、貧しいはずの売り子がプライベートでプチブルのような服を着ているし、従業員の宴会はまるで舞踏会のように壮麗に描かれている。1930年のデュビビエ版のリメイクだというが、そのデュビビエのほうはまだ見る機会に恵まれていない。大部の原作を90分足らずに圧縮したジェットコースター・ムービーだが、原作のプロットにはおおむね忠実に見える。とはいえプロットを消化するのに精一杯で、ゾラが膨大な言葉を尽くして描き出した初期大量消費社会の姿を再現するには至っていない。それをするには倍の上映時間が必要であろう。むしろ、上映時間の割りにはよく押し込んでいると言うべきで、百貨店の出勤風景、帳場、さまざまな客、万引き、食堂、売り子の張り合い、住み込みの部屋、従業員用食堂などの場面が実にテンポよく登場する。特に従業員用の食堂は原作のイメージどおりであった。ミシェル・シモン(ボーデュ)はつまりミシェル・シモンだが、アルベール・プレジャン(ムーレ)、ブランシェット・ブリュノワ(ドニーズ)は魅力がない。とにかく駆け足の内容なので、鑑賞に先立って原作を読むことをお勧めする。

貴婦人たちお幸せに【字幕版】 [VHS]
Tetsuya Sato

2012年10月20日土曜日

パリの胃袋

エミール・ゾラ『パリの胃袋』(朝比奈弘治訳、藤原書店)

青年フロランは弟を養うために学業を捨てて教師となって働いていたが、ナポレオン三世のクーデターの際に無実の罪で逮捕されて仏領ギニアへ流される。それから7年、悪魔島からの脱出を果たしたフロランは困難を乗り越えてフランスへ戻り、行き倒れ同然の有様となってパリ中央市場に辿り着く。だが暮らしていた家はすでになく、弟は叔父のシャルキュトリを受け継いで総菜屋として成功していた上に、結婚してこどもまでもうけていた。弟は兄の帰還を喜んで進んで家へ迎え入れるが、近所でも評判の美人妻リザにはこれが面白くない。フロランが痩せこけていて陰気だったからであり、対するリザはこれみよがしに脂が乗っていて、どこもかしこもむっちりとしていた。やがてフロランは中央市場に職を得るが、かつてのリベラル仲間と旧交を温めていくうちに社会主義の理想に目覚め、カフェの奥にあった小さくて崇高なサークルを恐るべき革命計画へと導いていく、といったような展開になっているが、登場人物に注がれていた語り手の視点がわずかでもずれると、視界に飛び込んでくるのは食物の山また山という仕掛けになっていて、つまり主役はあくまでもパリの中央市場なのである。
取材をベースにした濃密な再現描写をこの奇妙に移り気な視線が物語にうまく融合させていて、下手にやればただ浮き上がるだけのものに対して現実的な色彩を与えることに成功している。早い話、市場の露台とはしばしば目を奪うものなのである。そういうカラフルな場所を禁欲的で痩せこけていて胃が弱いフロランがうろついていると、でっぷり太った美人の群れが肉を切ったり魚を切ったり野菜を並べたりしているという構図はかなりの悪意に満ちている。題名(原題は「パリの腹」)が示しているように主題はよく身についた脂であり、その脂を持つ者と持たない者との対立であり、劇中クロード・ランチエが断言しているように、それはデブとヤセの戦争なのである。絶対の平穏を体現して丸々と立つリザの迫力がすさまじい。


パリの胃袋 (ゾラ・セレクション)
Tetsuya Sato

2012年10月19日金曜日

ボヌール・デ・ダム百貨店

エミール・ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(伊藤桂子訳、論創社)

1864年の秋、貧しいドゥニーズ・ボーデュは着の身着のままの姿で弟二人を連れて叔父を頼ってパリへ出るが、叔父のラシャ店は経営がひどく傾いていて、まわりの伝統的な小商店も同様の状態で、それというのも目の前に巨大百貨店ボヌール・デ・ダムが出現したからであったが、そのようなわけで商店街はすでに破産の秒読みに入っていて、それでも断固として抵抗を試みる叔父の一家は暗い窓辺に並んで暗い目つきで百貨店をにらみ、もちろん叔父は演説をぶち、とはいえドゥニーズを雇う余裕はなかったので金髪をしたこの清楚な娘は向かいの百貨店に売り子の職を得るのであった。すると同僚の売り子はいじめてくるし、主任はただもう恐ろしいし、親切だと思っていた監視官(万引き対策の)には下心があるし、なけなしの蓄えは美貌の弟の小遣いに消えてしまうし、悲しいことばかりで泣かずに眠れる夜はない。
いつものゾラの小説ならば巨大資本に立ち向かった商店主が敗北の坂を絶望的に転がり落ちていくか、さもなければ巨大資本を糧に冒険を挑んだ百貨店のオーナーが仕入れにしくじって敗北の坂を絶望的に転がり落ちていくか、あるいはどちらでもいいけれど売り子になった娘が悲惨の坂を絶望的に転がり落ちていくか、そのあたりの展開を予想するのだけど、今回はランチエの一族がからんでいないせいなのか、約束どおりに商店街は全滅するものの未来の息吹をはらんだ百貨店は楽観的かつ壮大に広がり、ヒロインは幸福になるのである。で、一段組みとはいえ500ページを越える大部の、もしかしたら半分くらいが百貨店の店内のディスプレーと買い物の描写で占められている。察するに大量消費社会の出現というのは相当にショッキングなものだったのであろう。百貨店側は目玉商品にだけ採算割れの価格設定をしているし、消費者は迷路のような売り場の中で余計な商品を買わされているし、賢明な主婦は値下げ時を知っていてセール期間中でも買い控えている。そして賢明な主婦も賢明でない主婦もいわゆるプチブル階級に属しているけれど経済的にはそれほど豊かではなくて、ただむやみと消費行動を刺激されて何も用がなくても百貨店に引き寄せられているのである。百貨店そのものに関わる圧倒的な描写量は物語を脇に押しやっている。
おそらくゾラは小説ではなくてルポルタージュを書くべきだったのかもしれない。売り子という新しい職業を話の中心に据えたものの、展開に困って色恋に染め上げていかなければならなくなった模様である。というわけで泣き虫の田舎娘ドゥニーズは中盤から新しい世代の女性の象徴的な存在へ、天然自然のフーリエ主義者へと立ち位置を変えて速やかに尊敬と崇拝を獲得していく。もちろんそれでも面白いけど。

ボヌール・デ・ダム百貨店
Tetsuya Sato

2012年10月18日木曜日

制作

エミール・ゾラ『制作』(清水正和訳、岩波文庫)

『居酒屋』のヒロイン、ジルヴェーズと愛人ランティエの間に生まれたクロードは事実上の印象派である「外光派」の技法上の創始者となるものの、不遇のまま未完の大作の制作に溺れて遂に芸術表現の限界に達して自殺する。
作中にはゾラ本人を思わせる作家が登場するし、この岩波文庫版の解説によればゾラにはセザンヌほか印象派の画家たちとの交流があったということで、話の背景は実話が基になっているらしい。とはいえ画家クロード・ランティエの運命を最初から最後まで不遇のままと位置づけたことでゾラお得意のジェットコースター小説にはなっていない。個人的にはここが肝心なところで、例によって後半、下り坂をごろごろと転がっていくものの上りの部分がまるでないため落差が乏しい。つまり落下に伴う重力エネルギーを十分に感じることができないのである(クロードの妻クリスティーヌの我慢に我慢を重ねた最後の爆発はものすごいけど)。時代とその状況を写真的に活写するという点では言うまでもなく重要な作品だが、小説を用いて芸術家の芸術的野心を描くことは、ともすればそのまま停滞を意味するということを我々に教えてくれる。登場人物の野心に加えて作家の野心もまた芸術的なモチーフとして前景化するので、熱情ばかりが先に立って構造が希薄になるのである。 

制作 (上) (岩波文庫)
制作 (下) (岩波文庫)

Tetsuya Sato

2012年10月17日水曜日

居酒屋

居酒屋
Gervaise
1956年 フランス 112分
監督:ルネ・クレマン

足の悪いジルヴェーズは帽子屋のランチエとともにパリへやってきたが、所帯は貧しく、それなのにランチエは遊んでばかりで働かない。間もなくランチエは娼婦と出奔してしまうので、ジルヴェーズは洗濯女となってこどもを養い、やがて屋根葺き職人のクポーと知り合って結婚する。ジルヴェーズの夢は店を借りて自分の洗濯屋を開くことにあった。だから爪に火をともすようにして小金をためていたのであったが、まさに店を借りようとした瞬間、クポーが屋根から落ちて重症を負う。貯金は治療費で消えてしまうが、善良な共産主義者の鍛冶屋から金を借りてジルヴェーズはついに自分の店を持つことになる。だがこの時、すでにクポーは怠け癖をつけて昼間から酒を飲むようになっていた。
エミール・ゾラ『居酒屋』の映画化である。で、このあと、ランチエが戻ってきてクポーと一緒になってジルヴェーズからむしりまくり、ジルヴェーズは転落の坂道をごろごろと転がり落ちていくのである。結婚式の場面、宴会の場面などはすばらしく躍動感のある見せ場になっている。視覚的にはていねいにつくられた映画だし、一級品としての格を備えているが、ただ惜しいことに後半のごろごろ部分が少々弱い。原作の方がもっと恐ろしいのである。ナレーションをジルヴェーズの一人称にしてあるけれど、その割には叙述の視点がはっきりしないというあたりも、もしかしたら欠点かもしれない。
Tetsuya Sato

2012年10月16日火曜日

トロツキー『裏切られた革命』

トロツキー『裏切られた革命』 翻訳:藤井一行(岩波文庫)

1937年に刊行された、トロツキーによる言わば憤激の書。
大半はスターリンを首班とする当時のソビエト政権の誤りを指摘することに向けられているが、いろいろと参考になるのは、富農撲滅に対してトロツキーは一定の留保を持っているらしいこと、いわゆる産業党事件に代表されるような技術者サボタージュについても、まったくの捏造であるとは考えていないこと、大粛清の過程にあっては青年層に反対派的(スターリン政権に対する)分子が存在し、地下活動をおこなっていると確信していること、などである。最後の点についてはどのような根拠でそう言っているのかがわからなかった(とはいえ、根拠があっても書くことはできなかったと思うのだが)。
しかしなんと言ってもこの本を読み応えのあるものにしているのはトロツキーが駆使している非難のレトリックであろう。つまりレーニンの「正統主義」から逸脱し、「官僚主義」を持ち込んで「革命を裏切った」「無教養な」「町人階級出身者ども」に対する非難、嫌味、あてこすり、揚げ足取り、などが豊富に盛り込まれていて、これはほんとうに参考になる。参考になるからと言って、扱っている背景が背景なので、こちらで使えるものでもないけれど。ちなみにトロツキーによればロシア革命後の失敗は、主としてロシアという国の貧困と無知にあったのだそうである。革命をする前からそれはわかっていたけれど、ロシアで革命が起これば西欧社会、特にドイツでも革命が起こり、世界革命へと発展していく筈だった(そしてスターリンですらそれは疑っていなかった)ので、ドイツ社会民主党がワイマール共和国に潜り込んでぬくぬくとしていたことには本当に裏切られたと感じたようなのである。そうなると信じていた根拠がいったいどこにあったのか、ちょっと興味がある。 

裏切られた革命 (岩波文庫)
Tetsuya Sato

2012年10月15日月曜日

トロツキー『わが生涯』

トロツキー『わが生涯』 翻訳:森田成也、志田昇(岩波文庫)

上巻はトロツキーがウクライナの農村ブルジョワの子弟として生まれてから二月革命まで。話者が話者だけに有名人ぞろぞろは当然のことだが、それよりも自意識を育んだ若者がいかにして思想家となり革命家となり、いかに革命を組織して革命を始めるかという一連のプロセスが実に克明に記されていて参考になる。19世紀末、つまり出発点においてはマルクス主義というのはナロードニズムの後にやってきた思想的な流行以上のものではなかったようである。
下巻は二月革命直後の状況から十月革命、内戦、レーニンの病気、「反トロツキズム」キャンペーン、そして流刑から追放まで。トロツキーは革命的理性と革命的信念に基づいてスターリン的官僚主義と歴史歪曲を批判する。革命家の生態を見るのに格好のテキストだと思う。
翻訳のよさもあるのだろうが、とにかくこの人は文章がうまい。なんといっても勢いがあり、ユーモアも警句も気が利いているし、複雑な状況も適度な取捨選択を加えて実に巧みに説明する。とりわけ内戦に関する記述は興味深く、「トロツキーの列車」のことにもそれなりの字数を割いて触れているのが嬉しかった。反面、内戦中はモスクワにいることがほとんどなかったからなのか、同じ期間のレーニンや戦時共産主義の状況についての具体的な記述がないのが惜しまれるが、それはやはりこの回想録の機能ではあるまい。で、なんというのか、キャラ立ちまくりのトロツキーと対置すると、スターリンというのはいかにも凡庸で寡黙なのである。スターリンが嫌ったのもよくわかるような気がするし、スターリンでなくともこんなのがそばで騒いでいたら、あまりいい気持ちはしなかったのではあるまいか。トロツキー自身にしてからが、レーニンは急いでいる時には自分には頼まなかったと告白している。言われたとおりにしないで言われたことを考え始めてしまうからであり、考えた結果から言われたこととは違う結論を導き出すことがあるからである。トロツキーが永続革命論でロシアを実際に引っ張っていったらどうなったのか。興味の尽きないところである。

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)
トロツキー わが生涯 (下) (岩波文庫)
Tetsuya Sato

2012年10月14日日曜日

十月

十月
Oktyabr
1927年  ソ連 109分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ

二月革命後、ケレンスキーに対する不満が高まったところへレーニンが帰国して四月テーゼを発表、労農大衆の行動に対する七月の反動があり、ボリシェヴィキは地下に潜伏、コルニーロフのクーデターを経て十月革命が起こり、ケレンスキー政権が崩壊するまで。レーニンのそっくりさんなどが登場し、革命の場面では膨大な数のエキストラが動員され、オーロラ号の砲撃もあり、冬宮の戦闘では婦人部隊と士官候補生が最後まで抵抗し、当然ながら反トロツキー的な味付けが加えられている。
過剰な上にときどき意味不明になるアナロジーがうるさいものの(おたふくのお面にどんな意味があったのか?)、ロシア革命の半年間にわたる経過を象徴的な場面で構成し、クライマックスに向かって盛り上げていく手法は見ごたえがあり、この作品に限ったことではないが、エドゥアルド・ティッセのシャープな撮影が印象的である。ボリシェヴィキを傘の先でつつき殺すブルジョアのおばさんたち、冬宮に立てこもった婦人部隊のおばさんたち、という具合に、なんだかおばさんたちがおっかない映画でもある。 


十月 [DVD]
Tetsuya Sato

2012年10月13日土曜日

ストライキ

ストライキ
Stachka
1925年  ソ連 86分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
出演:第一労働者集団、とクレジットされている

工場に潜入した赤色分子がストライキを扇動、多数の工員が参加して資本家に待遇改善の要求をつきつけるが、資本家はその要求書で靴を拭き、警察はスパイを放ってストライキの指導者をあぶり出し、同時に無頼漢を動員して攻撃を加え、長引くストライキに困窮した労働者たちは最後に軍隊に追い詰められて虐殺される。
視覚的な迫力、画面構成の面白さ、大胆なモンタージュの使用など、見るべきところが非常に多く、その点で『戦艦ポチョムキン』よりもこちらのほうが出来がよい、と考えている。 


ストライキ [DVD]
Tetsuya Sato

2012年10月12日金曜日

戦艦ポチョムキン

戦艦ポチョムキン
Bronenosets Potyomkin
1925年  ソ連 66分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン

1905年6月、黒海艦隊に属する戦艦ポチョムキンではボルシチ用の牛肉にわいた蛆が原因で乗組員が食事を拒絶、懲罰を加えようとしたところ反乱が起こり、銃撃戦が始まって数名が死亡、ポチョムキンは皇帝の指揮から離れて人民民主主義の戦列に加わり、反乱側の戦死者ワクレンチュクの遺体をオデッサの埠頭に運んで安置したところ、革命の気風が市内に感染、集まった市民に対してコサックが銃撃を加え、一方ポチョムキンはオデッサの沖で鎮圧のために現われた黒海艦隊と遭遇する、という一連のポチョムキン号事件の映画化。あの階段の大虐殺も含めて、ほぼ史実のままで、違うところがあるとすればポチョムキンの砲撃がほとんど効果を上げていないこと、オデッサ沖の海戦ははるかに複雑な状況であったこと、くらいであろう。階段の場面はものすごいが、全体としてみると説明的な部分が過剰である。 


戦艦ポチョムキン【淀川長治解説映像付き】 [DVD]
Tetsuya Sato

2012年10月11日木曜日

爆走機関車 シベリア・デッドヒート

爆走機関車 シベリア・デッドヒート
Kray
2010年 ロシア 124分
監督:アレクセイ・ウチテル

1945年9月、シベリアのクレイという、どうやら流刑地になっている村にイグナトという男が現われ、これがもともと機関士だったのが発作を起こして機関士の資格を剥奪されていて、それでも村に一台だけの機関車の機関士に任用されて、加えてそれまで機関士であったステパンの女ソフィアをものにし、機関車に乗り込むと、このほとんど50キロほどしか出ないこの機関車の限界に挑戦し、合流地点の手前の複線区間で機関士サルキシャンが運転する機関車と言わばチキンゲームに挑むので、この流刑地というのか村というのか独立森林伐採地点というのか、よくわからないけれど、その所長のコリヴァノフの怒りを買って機関助手に格下げされ、それが気に入らないイグナトは川のなかの島に機関車が一台放置されているという話を聞きこむと、壊れた鉄橋の向こうにある島に渡って機関車を発見し、1941年の5月以来、チェキストに追われてたったひとりでそこに潜んでいたドイツ人エルザも発見し、そもそも技師であったエルザの助けを得て機関車を動かし、壊れた鉄橋にレールを渡して橋脚をこしらえ、エルザとともに川を渡って村へ戻るが、村の者はドイツ人エルザをファシストとののしり、そもそも戦争があったことを知らないエルザはそのことでとまどい、ドイツ女を連れてきたことでイグナトは孤立し、ソフィアはエルザに嫉妬し、エルザはイグナトに愛を抱き、ステパンは愛を求めてソフィアに近づき、つまりロシア的な悲哀をみんなで抱えているところへ、かつてエルザの家族を殺害してエルザを森へ追い込んだチェキストが村へ現われてエルザとソフィアがドイツから連れ帰った子供を人民の敵として捕らえ、貨車に押し込んで連れ去ろうとするので、機関士サルキシャンは機関車の運転を拒んで機関車から降り、そもそも鉄道員の子であったチェキストは自ら運転台に立って機関車を走らせ、イグナトは自分の機関車でチェキストを追い、合流地点の手前の複線区間で言わばチキンゲームを開始する。
全編にわたって移動手段は機関車だけ、秋口から冬を迎えるシベリアの風景を背景に古色蒼然とした機関車が走る様子は風情があり、それをまたクマがちょこんと腰を下ろして眺めているなどというすばらしいショットも加えられ、バラック、浴場、森林伐採場などの美術もよくできているし、そこで右往左往する男女のウェザリングぶりがまたすばらしい。とにかく汚くて卑猥で、生活感にあふれていて、乱暴で貧乏くさいのである。やや説明的な話法に難点があるものの、雰囲気は抜群で、演出はパワーがある。見ごたえは十分であった。 


Tetsuya Sato

2012年10月10日水曜日

ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵

ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵
Volkodav iz roda Serykh Psov
2007年 ロシア 136分
監督・脚本:ニコライ・レベデフ

冒頭、平和な村が騎馬の集団の焼き討ちに遭い、生き残った少年は奴隷にされて鉱山に送られ、成人すると剣士になって父親の仇を討ち、呪いをかけられた町を訪れて姫と出会い、政略結婚のために旅立つ姫の護衛となり、その姫の命を狙う怪しい集団の襲撃を退け、ところが身内の裏切りに遭い、さらわれた姫を助けるために馬を駆り、怪しい集団の怪しい儀式の真っ最中に飛び込んでいって大乱闘をする。
いわゆる剣と魔法系のファンタジーに分類可能な内容だが、きわめて民話的な風味に仕上げられていて、そこへ古代ロシア風の情景がどことなくソヴカラーを模したような色調で広がっていく。シンプルなプロットの割には整理が悪いし、作り自体もいささか不器用だが、見せ場にはそれなりの作り込みが見え、美術はとにかく見ごたえがあり、撮影も美しい。丸太を組んだ町のセットはそれだけでも見る価値があるだろう。そして主人公が連れているコウモリがなんだかかわいらしいのである(最後には大活躍をする)。拾い物。





Tetsuya Sato

2012年10月9日火曜日

アバター

アバター
Avatar
2009年 アメリカ/イギリス 162分
監督:ジェイムズ・キャメロン

パンドラという衛星の地下にとてつもなく高価な鉱物が見つかり、ところがその上には例によって頭の固い先住民が住んでいたので、人類側の企業は先住民を立ち退かせるために暴力を使うことにするが、それに先立って先住民のなかに送り込んでいた人類側のアバターが先住民と一緒になって人類と戦う。
デジタル3Dという発展途上の技術を使って、観客に格別の疲れも感じさせずに二時間半以上の上映時間を持たせているのはおそらくたいへんなものだと思う。映画自体は徹底的に見世物としてデザインされ、登場人物はステレオタイプでプロットは寒い。クライマックスの人類対ナヴィの戦いのあまりと言えばあまりな軍事的ど素人ぶりは、何が待ち構えているのかわからない危険な場所に部隊を武装解除して前進させるということを話の都合のためにやってしまう監督なので、驚くほどのことではない、と言うべきであろう。人類側の各種装備、拠点などの量感はなかなかに楽しめるものとなっているが、後半、自然と調和して暮らすナヴィに焦点が移ると、なんというのか、どこまでいってもFINAL FANTASYのムービーみたい、というのが素朴な感想で、キャメロンがだめなのか、スクエアが偉いのか、あるいはスクエアもだめなのか、ファンタジックな世界とはつまるところこのあたりに限界が設定されているのか、わたしにはまったくわからないし、わかるつもりもないけれど、そのゲームのムービーのようなものを延々と見せられることになり、そしてゲームのムービーとは映画から後退したものであるとわたしは認識しているので、それを映画の前進であるかのように眺めるのは難しい。ところでパワーローダーの操作系がデータグローブというのは、やっぱりどこか恥ずかしいような気がしてならない(あのナイフも冗談みたいだし)。 




Tetsuya Sato

2012年10月8日月曜日

第9地区

第9地区
District 9
2009年 アメリカ/ニュージーランド 111分
監督:ニール・ブロンカンプ

ヨハネスブルクの上空に巨大な宇宙船が出現し、出現したまま3か月たってもいっこうに音沙汰がないことを不審に思った人類が内部に侵入してみるとエビの特徴を備えたエイリアン180万人が栄養失調に苦しんでいることが判明し、人道的な見地から支援の手を差し伸べて地上に搬送すると居住区は瞬時にスラム化して犯罪の温床となり、反発する市民の声を受けてすべてのエイリアンを新たな集中キャンプへ移送する手筈が整えられ、作業の実施は軍事企業MNUにゆだねられ、現場の指揮官に任命されたヴィカス・ヴァン・デマーヴはエイリアンに通知書を手渡すために早速スラムを訪れるが、絵に描いたような木端役人で想像力に乏しい上に幼稚で自己中心的なこの男はエイリアンをすっかり軽蔑し、エイリアンとはまったくたいしたことのない連中であると決めつけて完全になめてかかるので、うかつなふるまいをして怪しい黒い液体を浴び、間もなく自分の肉体が変異し始めていることに気づいて激しく狼狽し、ヴィカスを貴重な研究材料とみなしたMNUは勇んでヴィカスの解体に取り掛かり、ヴィカスはそこからどうにか逃れてスラムに隠れ、状況を変えようとしている一人のエイリアンと遭遇する。
傑作。着想は1988年の『エイリアン・ネイション』に似ているが、舞台はヨハネスブルクのソウェトに設定され、状況はアパルトヘイトの延長線上に出現し、そして登場するエイリアンの群れはあくまでも社会の異物であり、同化の可能性は閉ざされている。つまり問題はアパルトヘイトではなく、より根源的な違和感であり、違和感を前にして反応を自動化し、偏見に傾いたまま鈍感にふるまう人類にある。だから人類はつねに人類としてふるまっているが、論理は必ずしもこちら側にはないし、状況が進行すれば何かが解決されるという安易さもない。随所に見られる黒い笑いに共感を覚えた。ドキュメンタリー調の構成はきびきびとしていて心地よい。よく考えられたディテールが楽しいし、パワーローダー系の戦闘メカ、傭兵部隊、ナイジェリア人ギャングの三つ巴の戦闘シーンも迫力がある。ラーテル、キャスパーなど南アフリカ製の装甲車両が珍しい。





Tetsuya Sato

2012年10月7日日曜日

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第四回

文学界2012年11月号に佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第四回が掲載されています。

文学界 2012年 11月号 [雑誌]
Tetsuya Sato

世界侵略:ロサンゼルス決戦

世界侵略:ロサンゼルス決戦
Battle Los Angeles
2011年 アメリカ 116分
監督:ジョナサン・リーベスマン

マイケル・ナンツ二等軍曹が年齢的な理由で退役を決意したころ、地球に流星雨が接近するので海兵隊は避難誘導のために出動することになり、ナンツ二等軍曹もまたマルティネス少尉の小隊に配属されて部隊とともにサンタモニカの前進基地に移動すると、ときを同じくして流星がロサンゼルス沿岸に落下し、そこからエイリアンの軍勢が出現して一気に沿岸部を占拠するので、軍は敵占領地域の空爆を決定し、ナンツ二等軍曹の小隊は対象地域から逃げ遅れた市民を救出するために前進し、交戦して負傷者を出しながら避難民を確保するが、そこへエイリアンの航空戦力が出現して制空権を奪い取り、空路からの脱出が不可能になった小隊は死者を出しながら陸路を移動して前進基地へ帰還するものの、すでにそこは破壊され、小隊は救出地点を求めて移動を続け、ヘリコプターに救出されて上空からロサンゼルスの惨状をながめ、ながめているうちに敵の拠点を発見して地上に戻り、なおも戦闘を繰り返しながらエイリアンの司令部に接近してそこにミサイルを誘導する。
侵略してくるエイリアンが光線兵器のたぐいではなくて、どうやら固形弾を発射する兵器を使い、仲間が倒れるとうしろへ引っ張っていく。限りなく通常兵器に近い戦力をふつうに展開しているだけで、つまりエイリアンはエイリアンではなくて、ロサンゼルスを戦場化するための記号としての敵である。その敵を相手にきわめてリアルな海兵隊がモダンな戦闘を展開する様子はいかにもなドキュメンタリー調にまとめられていて迫力があるが、余計な人物描写と物語性を付与するための台詞がうざい。せっかく手間をかけているのだから、『ザ・パシフィック』くらいのテンションを目指してほしかった。あと、アーロン・エッカートが歴戦の海兵隊下士官というはミスキャストではあるまいか。





Tetsuya Sato

2012年10月6日土曜日

スカイライン 征服

スカイライン 征服
Skyline
2010年 アメリカ 94分
監督:コリン・ストラウス、グレッグ・ストラウス

どこからともなくエイリアンが攻め込んできて人間をさらっては脳味噌を取り、主人公のカップルもまたもたもたしているうちにさらわれて男のほうが脳味噌を取られ、取られた脳味噌をエイリアンだかエイリアンが飼っている化け物だかなんだかの頭に放り込まれ、するとこの化け物が頭を抱えてなにやら苦悩し、察するに男の脳味噌が化け物の肉体に打ち勝ったのであろう、恋人を救うために立ち上がって恋人に群がる化け物の群れをちぎっては投げちぎっては投げ、恋人にやさしく触れて、恋人のほうが「まあ、あなたは」などと言っているとそこへ新手がわらわらと現われるので、男のほうは仮面ライダーのようなポーズを取る。
かなりの低予算で、途中で現われる軍隊も含めて登場人物は十人ほど。その割にはがんばってビジュアルイメージを作っていると言えなくもないが、イメージが作品のスケールを格上げするにはいたっていないし、オリジナリティにも疑問がある。この兄弟監督による前作『AVP2』に比べるといくらかましではあるものの、退屈という点では変わりがない。 



スカイライン -征服- [DVD]
Tetsuya Sato

2012年10月5日金曜日

モンスターズ/地球外生命体

モンスターズ/地球外生命体
Monsters
2010年 イギリス 94分
監督:ギャレス・エドワーズ

NASAの探査機が地球外生命体を発見し、サンプルを採取して地球に帰還する途中で事故があってメキシコに落下、メキシコの北半分が汚染されて新種の生命体が跋扈する事態となり、アメリカおよびメキシコは汚染地帯を隔離してそこから現われる怪物と交戦し、空爆を加えて一般市民にも被害を与えている、という状況で、カメラマンのアンドリュー・コールダーは新聞社の社長の娘サマンサ・ワインデンをメキシコで保護し、アメリカへ連れ戻すために港へ急ぐが、港は目の前で封鎖され、帰国するためには汚染地帯を縦断する陸路以外にはないということになる。
戦闘で荒廃した都市、犠牲者の墓地、破壊された兵器の残骸、怪物の死骸などがややドキュメンタリー調の映像で登場し、そのビジュアルイメージはきわめて不穏で、同時に魅力的である。その作り込みぶりには素朴に感心した。汚染地帯に侵入したあとは、ガイドや護衛について前進するだけ、というシンプルな構成は基本的には成功しているが、おそらくは状況の刈り込みに不足があり、ダイアログや演出がやや過剰となっている点が惜しまれる。 





Tetsuya Sato

2012年10月4日木曜日

Super 8/スーポーエイト

Super 8/スーパーエイト
Super 8
2011年 アメリカ 111分
監督:J.J.エイブラムス

1979年の夏、オハイオ州の小さな町で中学生の一団が8ミリ映画の撮影をしていたところ、大規模な列車事故に遭遇し、転倒したカメラが列車に隠された秘密をとらえ、事故現場には空軍部隊が出動し、一方、町では犬が行方をくらまし、停電が頻発し、電線が消え、エンジンが消え、ひとが消え、空軍は火事を起こして住民を追い出し、中学生の一団はカメラがとらえた秘密から真相に近づき、軍に捕えられたところで真相それ自体に遭遇する。
E.T.が帰還を果たせないまま軍に捕まって20年も拷問を受け、すっかりすねまがったところで逃げ出して町にさまざまな怪事を起こし、復讐を果たし、こどもの説得を受け入れて宇宙に帰っていくという話である。主人公である中学生の一団が思い切りジュブナイルなプロットに沿っててきぱきと動き、余計なことに時間を使わずに2時間近くをきっちりと持たせる骨の太さが好ましい。J.J.エイブラムスの演出は細部にまで目が届き、しかもクリアでよどみがない。子役がどれも魅力的で、大人との関わりもうまい具合に処理されている。エンディングロールで流れる「自主製作映画」も含め、楽しい仕上がりになっている。悪役ネレク大佐の最期がややあっさりとしているような気がしたが、この敵対関係は必ずしも主軸にはないので、これはこのようなものであろう。 


SUPER 8/スーパーエイト [DVD]
Tetsuya Sato

2012年10月3日水曜日

クローバーフィールド

クローバーフィールド
Cloverfield
2008年 アメリカ 85分
監督:マット・リーヴス

マンハッタンに住むロブ・ホウキンズは仕事の関係で日本に移住することになり、そのお別れパーティがロブの自宅で開かれるが、関係のあった女性ベス・マッキンタイヤが男連れで現われたことでロブとベスのあいだに悶着が起こり、ベスはパーティから早々に引き上げ、その様子を見たロブの兄ジェイソンはロブを諭す。兄の意見を受け入れてロブが心を入れ替えていると、突然地震のように建物が揺れ、彼方に見える建物では爆発が起こって破砕物が炎の尾を引きながら飛来する。パーティ客は慌てふためいて建物から逃れ、路上に出たところで建物と建物のあいだに巨大な生物を目撃し、群集に混じってブルックリン橋へと避難するが、橋は何者かにに襲われて倒壊、ロブは携帯電話でベスの危機を知り、助け出すために来た道を戻る。
危険なところへ戻るのだから一人で戻ればよさそうなものを、全編をハンディカメラの映像で構成するという面倒な第一原則が存在している関係で、カメラを回している男、カメラで前で話す男女、といった必要を満たせる人数で戻らなければならないのである。そして状況がどうであろうと何がなんでもカメラを回し続ける必要があるので、カメラを回している男はいくらか鈍感である必要があり、そうして回っているカメラの前で周囲の状況に負けずに反応を示す必要もあるので、カメラの前で話す男女もまたいくらか鈍感で声が大きくて口数が多くなければならないのである。つまり鈍感で声が大きくて口数の多い人間が得体の知れない状況に巻き込まれて走り回っているわけで、そうすると見ているこちらは、そういうずさんで要領を得ないものを揺らしたり斜めにしたり大写しにしたりするために、映画的な文法をわざわざ放棄したことの意味について多少は考えたくなってくる。
都市空間を動き回る巨大な怪物、それを迎え撃つ海兵隊、といったおいしい絵が豊富に登場するものの、消化はあまりよろしくない。「アトラクション映画」という言い訳も耳にしているが、アトラクションだとすれば、ストーリーや人物関係は余計であろう。エンディングで流れる『クローバーフィールド』序曲「がおー」のどことなく伊福部的な旋律を聴いていると、とにかく怪獣映画が好きでやってるんだなあ、というほほえましい気持ちになってくるが、記録映像的な処理についてはスピルバーグやグリーングラスあたりがすでに多様な先例を残しているわけで、ここで「一般市民が撮った不器用な映像」の「模倣」にまで後退する理由がよくわからない。見やすい見にくいという問題以前に、まず単調になるのである。手持ちカメラの映像という選択をするにしても、そこに多様性を与える方策がどこかにあったのではあるまいか。





Tetsuya Sato

2012年10月1日月曜日

ボーン・レガシー

ボーン・レガシー
The Bourne Legacy
2012年 アメリカ 135分
監督:トニー・ギルロイ

CIAがジェイソン・ボーンだのトレッド・ストーンだのトレッド・ストーンのアップグレード版のブラックブライアーだのを隠蔽しようとたくらんで激しくへまをしでかすので、その尻拭いのために国家安全保障局も顎で使う、なんとかいう名前の恐ろしい組織が登場してエドワード・ノートン扮するリック・バイヤーの指揮のもと、ジェイソン・ボーンだのトレッド・ストーンだのトレッド・ストーンのアップグレード版のブラックブライアーだのといったあれやこれやのプログラムを隠蔽しようとたくらんで証人をあれして証拠をこれして、もちろんあれやこれやのプログラムも停止することにして、停止するわけだから念書でも取って全員解雇すればよさそうなものをいきなり抹殺、それもミサイルをぶち込むなどというコスト意識のかけらもないことを始めるので、あれやこれやのプログラムの一つであるアウトカムの要員アーロン・クロスが抹殺の魔手を逃れて生き残り、あれやこれやのプログラムの一つにかかわっていた、なんだか難しい名前の製薬会社の研究員マルタ・シェアリング博士もまたあれやこれやにカウントされていたのであやうく抹殺されそうになっていると、そこへアーロン・クロスが飛び込んできてマルタ・シェアリング博士を窮地から救い、ややIQの低いアーロン・クロスは思考能力を保つためにプログラムが提供する薬を飲み続けなければならない、ということでアーロン・クロスとマルタ・シェリング博士は薬の工場があるマニラを目指し、二人が生き延びていることを知ったリック・バイヤーはジェイソン・ボーンだのトレッド・ストーンだのトレッド・ストーンのアップグレード版のブラックブライアーだのアウトカムだのといったあれやこれやのプログラムのなかでも最新最強のプログラムであるラークスからとにかくふれこみだけはすごい人間兵器を送り込む。 
最初からそうだった、と言えば言えないこともないけれど、改造人間が次から次へと、というところはもうほとんど『仮面ライダー』なのである。
このばかばかしさを自覚してやっているのか、自覚なしにやっているのか、そこがよく見えないところがおそらく最大の難点であろう。さすがに絵としてはいちおう完成しているが、全体としてのつながりが悪く、時間の整理が悪く、ダイアログは荒削りで、アクション・シーンはリズムに乏しく、マニラの追跡シーンはしばしば遠近感がつぶれている。ピンボケを恐れずにつなぐグリーングラスのむこうを張って望遠レンズでも持ち込んだせいであろうか。さまざまな欠点にもかかわらず、ジェレミー・レナーはよくやっているし、レイチェル・ワイズはきれいに撮れている。ただ、エドワード・ノートンはなぜエドワード・ノートンなのかよくわからないし、あの回想シーンは完全に無駄でだし、くだらない。『ボーン・アルティメイタム』と並行して走っている状況、ということでジョーン・アレン、アルバート・フィニー、デヴィッド・ストラザーン、スコット・グレンなどが顔を出しているが、どうにも刺身のつまのようで面白みはない。 

Tetsuya Sato

ボーン・アルティメイタム

ボーン・アルティメイタム
The Bourne Ultimatum
2007年 アメリカ 115分
監督:ポール・グリーングラス

ジェイソン・ボーンはモスクワから脱出し、ロンドンではガーディアン誌の記者サイモン・ロスが「トレッドストーン」のアップグレード版「ブラックブライアー」の存在を嗅ぎつけ、内通者から情報を得て記事にすると、その記事を見たジェイソン・ボーンがロンドンに現われ、サイモン・ロスを監視下においたCIAはジェイソン・ボーンを発見し、ジェイソン・ボーンがサイモン・ロスの資料を頼りにマドリッドへ移動すると標的はタンジールに移動、CIAも大挙してその後を追って情報の隠蔽を図り、ジェイソン・ボーンはCIAが消し残した情報からニューヨークへ飛び、すべてを思い出して出発点にたどり着く。
ジェイソン・ボーンがとにかく頑丈だし、ご婦人方は無条件でボーンに味方するし、対するCIAでは現場指揮官は相変わらずに無能をさらすし、戦闘員は例によってやられるために飛び出してくるし、という具合で、よくよく考えると単細胞な内容だが、絵がかっこいいし、ポール・グリーングラスのよどみのないリズミカルな演出がとにかく心地よくて、特にアクションシーンの転調が気持ちいい。 





Tetsuya Sato

ボーン・スプレマシー

ボーン・スプレマシー
The Bourne Supremacy
2004年 アメリカ 108分
監督:ポール・グリーングラス

ベルリンでCIAの工作員が殺害され、真犯人がそれをジェイソン・ボーンの仕業であるかのように見せかけるので、インドにこもっていたジェイソン・ボーンがはるばるベルリンまでやってきて濡れ衣を晴らす。
前作に比べると目的が明確なのでストーリーの遅滞がなく、対立関係も明瞭で演出はおおむねテンションが高い。手持ちカメラを多用した(あるいはそのように仕立て上げた)映像は個性的な編集でつながれていて面白い。アクションシーンでも視野の片隅に対象を押し込んでいくような圧迫感のある演出がおこなわれていて迫力があり、見ていて『バットマン ビギンズ』を思い出した。ベルリンやモスクワのシーンも空間的な広がりが見事だし、クライマックスのカーチェイス・シーンも生理的に痛そうな感じがして工夫がある。全体をとおして映像に面白みの多い映画だと思う。





Tetsuya Sato