2012年8月2日木曜日

伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』

 伊坂幸太郎氏による久々の長編書き下ろしである。設定に国家レベルの枠組みを持ち込みながら、それでもすべてを手元に引き寄せて、話を仙台から一歩も出さないところがたのもしい。冒頭、就任間もない首相が仙台市内をパレード中に暗殺される。そして失業中の元宅配ドライバーがいきなり犯人にされ、警察に追い回されて逃げ回る。
 主人公は多少外見に恵まれていることを除けばまったくふつうのひとなので、このようなことにをするようにはできていない。権力機関に伝手はないし、友人もふつうの非力な市民ばかり、という有様で、もっぱら経験則を頼りに逃げ続ける。一方、警察は検問を張り、罠を仕掛け、発砲し、メディアを制御し、メディアはメディアで憶測を先に立てて主人公に対する誹謗中傷を繰り広げ、しかも仙台市内には全市を覆う形で得体の知れない情報収集装置が配置されている。
 いつもながら、と思わず感心したが、構成がきわめて巧みである。作者は逃げ回る主人公の逃げ道をふさぐだけではなく、事件が謎のまま終わることを早々と明かして読者の逃げ道までふさいでしまう。すべての謎が解き明かされることを期待しながら、ありきたりなハッピーエンドを思い描いていた読者はここで激しく困惑し、不安に駆られることになるだろう。
 それじゃあ、いったいどうなるのか。そこから先は物語がジェットコースターのように突進し、登場人物が入り乱れ、切れ目なしに場面が動き、動いた場面が絡み合い、息つく暇を与えない。スピード感があってよどみのないカット割りはトニー・スコットの映画を思い出させる。そして原稿用紙一千枚のボリュームを本当に一気に読ませてしまう。たいへんな筆力である、とまた感心したが、それだけでは終わらない。
 巻末で作者自身が明かしているように、作品の下敷きになっているのはジョン・F・ケネディ暗殺事件であり、事件の背景で囁かれている陰謀である。だから作品に登場する日本も現実の日本とはやや異なっていて、二大政党制がおこなわれ、首相は公選されている。首相暗殺犯がひそむのは当然、教科書倉庫ビルであり、まったく身に覚えのないことで追及を受ける主人公は、つまりリー・ハーヴェイ・オズワルドなのである。もし自分がオズワルドだったら、と考えていただきたい。作者がすさまじいまでの緊張感で描き出すのは、歴史的な事件の全貌でも国家的な陰謀の正体でもない。たまたまオズワルドにされてしまった一人の市民の困惑であり、絶望的な状況に置かれた個人の戦いなのである。しかもこれは冤罪などというものではない。オズワルドがジャック・ルビーに射殺されたように、主人公にも捕まれば始末されるという運命が待っている。その運命を強調するかのように、警察は徹底した暴力装置としての性格を与えられ、武器を振り回して平然と市民を巻き添えにする。ここには俯瞰できるような大きな絵は存在しない。等身大の人物が自分の運命を背にして立っているだけなのある。
 読者は主人公とともに戸惑うことになるだろう。運命を呪い、目の前に差し伸べられた救いの手に疑いの目を向けることになるだろう。あるいは遠くから寄せられていた愛や善意に気がついて、心に温もりを得ることになるだろう。この作者が人間性に寄せる信頼は、美しく、そしてなかなかに得難いものである。
(週刊現代 2008/1/5-12年末年始特大号)


Tetsuya Sato