2012年8月1日水曜日

伊坂幸太郎『砂漠』

 伊坂幸太郎氏の作品の魅力は短編でももちろん味わうことができるが(まず短編から、という方にはとりあえず『死神の精度』をお勧めする)、その魅力がいかんなく発揮されるのはやはり長編の大きなストロークのなかであろう。遠景と近景を取り混ぜて複合的に配置された独特の人物、多重化された時間の流れ、人物と時間の綾織りによって多面性を帯びていくさまざまなエピソード、その結果として浮かび上がる重層的な空間はやはり長編ならではのものである。そしてこれは短編とも共通した特徴ということになるが、伊坂氏のテクストは常に対象との距離を適度に保ち、登場人物の感情を操ることをしない。人間の心象に土足で踏み入ることを嫌い、むしろあるがままにキャラクターを投げ出す潔さが登場人物をステレオタイプから遠ざけていく。そうして非中立化された男女は自分の思考に拘泥し、しばしば唐突に行動し、しかも他人の意見をあまり聞かない。人間という生き物をどこか得体の知れない存在として扱うことに関して、伊坂氏の手腕は非凡である。
『砂漠』と題されたこの作品では、仙台の街を舞台に、たまたま大学で同じクラスになった五人の男女の青春の軌跡が描き出される。一人は大学生活を遊びにかけて女の子に声をかけまくり、一人は現代の世界情勢に憤ってマージャンで平和を作り続け、一人はクールに自分を生き、一人は静かに恋を育み、語り手である「僕」は初めは世界を冷静に俯瞰しながら、やがて仲間に引きずられるようにして視点を地上に下ろしていく。形はあきらかに正攻法の青春群像劇を指向しているが、予想されるような青臭さはついに一度も顔を出さない。代わりに見えてくるのは人間が五人集まったときにふつうに現われるようなとりとめのなさであり、そのせいで話がどこへ転がるのかわからない危なさである(実際、かなり危ないことになるし、語り手一人に限っても、大学在学中の四年間に路上で少なくとも二度格闘し、少なくとも三度は警察に出頭している)。そしてよくよく考えてみると、この主人公五人の共通点というのが実はマージャンをするということだけで、それ以外にはなにもないということに気づかされる。そういう組み合わせなので、いったんマージャンから離れるとそれぞれが勝手にそれぞれの方向へ飛び出していくことになるものの、読者にとっての心地よい驚きは登場人物のこのばらばらとした動きが決して不協和音を奏でることなく、よく吟味された多声性のなかへ収められていくことである。
 ときには深刻に、ときにはコミカルに、ときには勇敢に、ただし決してネガティブにはならない主人公五人の学生生活は、苦労の多くて稔りの少ない実社会という「砂漠」と対比され、その砂漠のような場所に向かってやがて若者たちは旅立っていくことになる。どこかファンタジックではあるが、現実を写そうと試みる作者の手つきには偽りがない。
(週刊現代 2006/1/21号)


Tetsuya Sato