2012年6月15日金曜日

北野勇作『どうぶつ図鑑』

『どうぶつ図鑑』(1)-(6) / 北野勇作(ハヤカワ文庫,2003/4-6)


北野勇作氏の作品を読むと自分がひどく退屈で感性に乏しい人間のように思えてくる。なにしろテキストの緩急が自在なら、題材も自由自在だし、残酷になることができる一方、独特のポエジーを乗せることもできるし、両者をほどよく結合することもできる。残酷な状況にポエジーを乗っけて、何度も世界を滅ぼしていて、その上、それだけでは済まなくて、登場人物が実においしそうにごはんを食べるのである。何か飾ったような、特別な描写があるわけではない。ただ、おいしそうに食べるのである。ソースをぶっかけたって書くだけで、なんであんなにおいしそう見えるのか。これは努力しても真似られないので、だから、うらやましいと思うのである。


『どうぶつ図鑑』は全部で六巻の構成になっていて、一冊一冊はとても薄い。たぶん、平均100ページくらいしかないだろう。だが、そこだけで判断してずるをしていると思ってはいけない。各巻には北野氏の短編数話が西島大介氏のひじょうにかわいらしい挿し絵とともに収録されていて、さらに付録として特製折り紙がついている。各巻の表紙を飾っているのはその折り紙の完成品(一巻から順に「かめ」「とんぼ」「かえる」「ねこ」「ざりがに」「いもり」)で、表紙の見返しのところにはそれぞれの折り紙を手にしている北野氏の写真(自分で折ったのだろうか?)とそれぞれの動物についての北野氏の短いエッセーが掲載されていて、つまり、実に凝った造りの本になっていて、並べて飾っても楽しいお得な短編集なのである。


各巻の内容はそれぞれで独立したものではなくて、巻末には月ごとの『生き物カレンダー』が連載されているし、書き下ろしのカメもの『カメリ』シリーズが隔巻で連載されてもいる。そこへ表紙に折り紙付きで題された動物モチーフが折り重なって、トンボとかカエルの話が加わっていく。各巻の内容に少しだけ触れておくと;


その1 かめ:二足歩行型の模造亀を主人公にした『カメリ』が楽しい。人類がいなくなってしまった地球を舞台に、模造亀とか石頭のマスターとか赤毛のヌートリア人間のアンとか、ヒトデから生まれた作業員のヒトデナシとかが健気に生きているというシリーズである。人間はいなくなっているけれどテレビの中では生きていて、テレビを見ているカメリたちは人間の世界に詳しいし、ちょっと朦朧とした憧れのような気持ちを抱いている。登場するのはテクノロジーによる被造物であり、被造物たちには被造物としての自覚があり、だから人間とは異なる生存目的を備えていて、したがって人間と同じ論理を共有していないけれど、それでも生活感だけは模倣をしているというあたりが実に自然で、これはもう素朴にすごいと思う。『生き物カレンダー』は1月から4月分。


その2 とんぼ:巻頭の『新しいキカイ』もいいかげん気味が悪いが、この巻の代表はやはり 『トンボの眼鏡』であろう。システムの障害原因が視覚翻訳された結果、異様な世界が出現する。日常性に埋没した奇怪なテクノロジーを描かせたら、北野勇作氏の右に出る者はいないのである。


その3 かえる:「異形コレクション」の掲載作品が中心。『楽屋で語られた四つの話』の「その三」に注目。人称と時制を小刻みに混在させるという野心的な試みがおこなわれている。『カメリ』第二話「カメリ、行列のできるケーキ屋に並ぶ」にはちょっと感動。『生き物カレンダー』は5月から8月分。


その4 ねこ:『どうぶつ図鑑』のなかではたぶん最長の『手のひらの東京タワー』が収録されている。東京を何度となく破壊した例の怪獣をモチーフにした、なんとも切ない物語である。未来と死とを虚構の中で対置した『シズカの海』も味わいがある。


その5 ざりがに:全体に漂ういかがわしさとわびしさが不可解なリアリティを発揮する『押し入れのヒト』がまずすごい。同じ職場の「西野さん」が「暴走」する光景がなんともすごいし、その「西野さん」に背後を取られる恐怖感もなかなかにすごい。そして『ヒトデナシの海』の淡々とした不気味さもすごいのである。つまり、すごい、すごいと言って読んでいるだけなのである。『生き物カレンダー』は9月から12月分。


その6 いもり:『曖昧な旅』とそれに続く『イモリの歯車』はいずれも旅をモチーフにしている。旅先の風景を記憶の底からかすめ取って、さっとそこに素描したような対象との距離感がなんとも心地よいのである。全体を通しての最終話は『カメリ』第三話「カメリ、ハワイ旅行を当てる」。いや、ヌートリンアンのアンの凶暴なこと。


というわけで、世界は圧倒的に理不尽で、我々はそこに取り込まれてすっかり行き場を失っていて、その理不尽さをどうすることもできずにいるわけだけど、そのままそうしておくわけにもいかないので一種の諦観とともに理不尽なこの世界をもう一度眺めてみると、少なくとも自分がそこにいるということはどうにかこうにか見えてくるので、結果としては世界に対して一種の愛情のようなものが芽生えてくることもある、つまり、そういうことを北野氏は書いているのだ、とわたしは勝手に考えているような次第である。




Tetsuya Sato