2012年6月13日水曜日

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ(2009)
Where the Wild Things Are
監督:スパイク・ジョーンズ


オオカミのきぐるみを着て大暴れをしたマックスはママに叱られて晩ご飯抜きになり、家から飛び出してボートに乗り込み、大海原を越えてとある島にたどり着くと、そこでは怪獣たちが暮らしていて、マックスは怪獣たちの王様になる。
もともとそれが楽しみで見にいった、というところが大きいのだけど、期待にたがわずジム・ヘンソン工房が製作した怪獣はとてつもなく魅力的で、しかも信じがたいようなアクションまでこなしてくれて、これはもはやスーツでもアニマトロニクスでもなくて限りなく本物に近いものではないか、とまで感じさせてくれるすばらしい仕上がりになっている。
ところが、これは期待に反して、ということになるのだが、この映画のなかの怪獣たちはどれもまったくWild Thingではないのである。それを言えば筆頭であるはずのマックスもまたWild Thingではないのである。かわりにマックスのママはマックスの前に、そして観客の前にも姿を見せて離婚していること、生活に疲れていること、ボーイフレンドとの関係を進めたいと願っていること、などをあきらかにし、さらにマックスの姉までが現われてマックスに疎外感を与え、マックスはたしかにきぐるみのオオカミを着て暴れているけれど、それはマックスがWild Thingだからではなく、なにかしら適切な支援を必要としているからなのである。この段階で、実はかなり引いていた。
そういうマックスだから、すでに幻想を内包していない。怪獣の島に向かって出発するのは自分の部屋に出現した密林の向こうの海からではなくて、家の外にある、おそらくは現実の海からであり、その結果、怪獣たちの島もまた幻想から遮断されて現実と接続されるので、果てもなく怪獣ダンスをするかわりに『レボリューショナリー・ロード』を始めることになるのである。決して出来の悪い映画ではないし、これがスパイク・ジョーンズのまったくのオリジナルであったとしたら、たしかに悪くない映画だと言うことになるのかもしれない。しかしこの、精神道場に三日ばかり通ったニューヨーカーの半端な現実認識のようなしろものが、あの絵本の映画化だということになると、ちょっと違うのではないか、とつい言いたくなるのである。 






Tetsuya Sato