2012年5月28日月曜日

伊坂幸太郎『あるキング』

 伊坂幸太郎氏の長編『あるキング』のあらすじはおおむね次のとおりである。
 最下位に根を生やしたような弱小球団の地元で生まれた男の子が生まれて間もない頃からバッターとしての素質を現わし、リトルリーグの段階でプロの投手の投げた球をホームランにするほどの才能を発揮するものの、いつしか社会的な迫害にさらされて苦難の道を歩まされ、地元の球団への入団を果たしてプロ野球の選手になってからも、天才であるという、言わば不正行為によって憎悪を浴びることになり、理解する者も励ます者もわずかしかない。しかし最後には静かに長引く深い感動が訪れる。
 主人公を呪われた野球人生へと導いていくのは地元弱小球団の熱烈なファンである両親だが、この両親が抱いているのは野球狂の妄念のようなものではなくて自分に振られた役割に対する明瞭すぎるほどの自覚であり、息子もまたそれを受け継いで自分の役割を黙々と果たしていく。本来ならば必ずどこかにあるはずの、立ち止まって人生への疑問を抱くための瞬間がここには用意されていない。何かがおかしいと感じる暇もないところで登場人物の行動はときとして不自然なほど目的と一致し、周辺で起こる小さな雑音までが目的に回収されてしまう。
 これはこの作品がもっぱら伝記的な手法によって記述されているからである。いちおう三人称の形式を備えてはいるものの、顔の見えない語り手の存在が明示されることで伝承的な意味合いが強化され、一方で小説的な機能は後退し、完成された偉大な人生を物語るという目的に沿って小説的な細部は脱落していく。
 つまり伝記的な記述にからめ捕られることで人生はかなり単純になり、偉人伝における人物の行動であるという理由から、行動は原則として合目的化されるのである。強引なまでに合目的化されているという事実は新たに出現する二人称の語り手によって主人公に伝えられるが、この二人称の語り手も三人称の語り手と同様に歴史的な視点に立っているため、その声が現在進行形の主人公に本当に届いているのかどうか、読者にはまったくわからない。読者にわかるのは主人公を見守り、その存在を肯定する頼もしい声がどこかから響いているということだけである。そして主人公を包囲する伝記的な記述の外側から一人称の語り手がときおり現われ、主人公を現実の視野に置いて他者としての実感を備えた肉体を与える。ここに見えるのは天才といういかにも不可解な存在を、不可解なままいかにして描くかという卓越したアプローチであり、小説という表現手法に対する誠実な考察の結果にほかならない。そうして立ち現われる天才の孤独は恐ろしいまでに生々しく、天才が放つホームランは痛いまでに悲劇的なものとなるのである。
(週刊現代 2009/10/17号)


Tetsuya Sato