2012年5月23日水曜日

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』

 ここ数年、ミステリーの領域からいわゆる推理小説という枠組みではくくり切れない新しい才能が現われている。二〇〇〇年に第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞して登場した伊坂幸太郎氏もその一人である。
 デビュー作となった『オーデュボンの祈り』は宮城県沖の孤島で起こった連続殺人事件といういかにもありそうな大枠を与えられているものの、ありそうなのはそこまでで、そこから先は徹底して異質な方向へと発展させられていく。つまり島は百五十年前から鎖国状態にあり、喋るカカシが田んぼの真ん中に立っていて、カカシはただ喋るだけではなくて知性を備えている上に未来のことも予言もするし、おまけに連続殺人の最初の犠牲者にもなってしまう。
 続く『ラッシュライフ』は互いに近接する五つの話が不気味なほどに心地よくすれ違いながらほぼ同時に進んでいくという凝った造りになっていたし、『重力ピエロ』は迂遠な形態を備えた復讐劇が五十を越す「話題」と文学テクストからの無数の引用、韜晦の多い会話から構成されており、一人称の語り手はその誠実そうな語り口に反して必ずしも信頼に値しない。
 小説の機能を酷使しているという点で、伊坂氏のたくらみはきわめて文学的である。そしてそうした傾向は五作目の長編作品となる『アヒルと鴨のコインロッカー』にもはっきりと見ることができる。
 まず目を惹くのが扉の次のページで待ち構えている一行である。太い文字で「この映画の製作において、動物に危害は加えられていません」という意味の英文があり、下に小さく和訳が添えられている。アメリカ映画のエンディング・クレジットでよく見かける但し書きで、これが現われると見ているこちらはどの場面のことだかわからなくても、なんとなくほっとすることになる。かわいい動物たちが一度も危険な目にあわなかったことがそれでわかるからである。
 ここではその但し書きがわざわざ物語の開始に先立って引用されることにより、本編中において動物が危険な目にあわされることが逆説的に明かされることになる。すでにして不穏である。そしてその次のページでは語り手の一人である「僕」がいきなりモデルガンを握り締めて書店襲撃に加担している。なかなかに異様である。ページの表と裏を使って不穏にして異様というのは下手がやれば奇をてらったことにしかならないが、伊坂氏は独特のモノローグを含んだテクストを淡々と進めることでそれをスタイルとして見せてしまう。うらやましい才能と言うべきであろう。
 とはいえ、ここはまだ序盤であり、本当に注目しなければならないのはもちろん小説の本体にほかならない。
 最初に登場する「僕」は二十歳前の若者で、東京にある実家を出て、大学生活を始めるために仙台のアパートに移り住む。山積みになった荷物を片づけるうちに黒い猫と遭遇し、段ボール箱を片づけにちょっと廊下へ出たところで黒ずくめの男と遭遇し、有無を言わさぬ状況の力強さに巻き取られて夜中に本屋を襲撃することになる。
 次に登場する「わたし」は二十台なかばの女性で、仙台市内のペットショップで働いている。そして迷子になった黒い柴犬を探しているうちに夜の公園で倫理にもとるふらちな三人組と遭遇する。
「僕」と「わたし」のあいだには二年間の時差があり、「僕」のまわりにいる人物は二年前の出来事とその結末を知っている。二年前の「わたし」が追いかけている事件は、二年後の「僕」の世界ではほとんど触れられることがない。事件はただ風化したかのように見え、登場人物は健全な連続性を保っているかのように見えるが、物語が進行するにしたがって決してそうではないことが明らかになってくる。
 普通に回想形式を用いれば、このプロットはよりドラマティックに描き出されたに違いない。三人称して均してしまえば平坦ではあっても読みやすいテクストになったことだろう。ところが伊坂氏はそうする代わりに物語を真っ二つに割って二年間の時差をはさみこみ、一人称の語り手を二人送り込んで両者のあいだに視点と時間のひねりを加える。そうすることで物語はただ語られるものではなくなり、見えるものと見えないものとが互いに微妙な角度を持って折り重なり、多面的な宇宙を構築することになるのである。
 その効果を映画の手法にたとえてみれば、スプリット・スクリーンに似ていなくもない。ただし、ブライアン・デ・パルマがよく使っているような通常のスプリット・スクリーンが同一の時間帯に属する異なる画像を同時に映し出すのに対して、伊坂氏のスプリット・スクリーンは時間差をも扱ってみせる。もちろん映像作品でも時間差を持ち込むことは可能だが、それはただ単に画面を分かりにくくするだけであろう。伊坂氏は小説という表現形式にしかできないことを考えて、その成果を見せているのである。
 それにしてもこの人物造形はどうであろうか。読み進めるにしたがって、読者はこの作品に魅了されるはずである。
 時間のずれが光の綾織りのように波打っているからではない。一種の禁じ手と言ってもいいような恐ろしい展開が待ち受けているからでもない。ステレオタイプを拒絶した人物が次から次へと現われて、みずからに忠実であろうとするからである。
 超人は一人も登場しない。いずれも市井の人物ばかりだが、退屈な常識に魂を売った者は一人もない。信じているのは自分自身の良心だけで、みずからの霊感にしたがうことを恐れない。だから平凡な隣人の皮をかぶっていても正体はそうとうにアナーキーなのである。いや、人間であるからには、そうでなくてはならないのだ。
(週刊現代 2003/12/20-27合併号)


Tetsuya Sato