2012年5月15日火曜日

藤崎慎吾『ハイドゥナン』

 天変地異を扱う物語では人類は概して無力である。相手が巨大な隕石のたぐいであれば、もしかしたら割ってしまうこともできるかもしれない。しかし地球が相手ということになり、それがまた地殻変動であったりすると、これはもう涙を呑んで耐えるしかない。
 本書『ハイドゥナン』では沖縄トラフに異変が起こり、急激な地殻変動によって南西諸島全体が沈没の危機にさらされる。日本列島と南西諸島という範囲の差はあれ、どこか『日本沈没』を思わせる設定だが、『日本沈没』に比べて本書が大きく異なるのは、涙を呑んで島々が沈むのにまかせるのではなく、それを阻止しようとたくらむところである。どうやって? という素朴な疑問への回答がこの小説の核となっている。
 危機を知った日本政府は秘密裏に調査活動に取りかかる。しかし、その調査というのは海底資源の開発に着手して既成事実を獲得し、排他的経済水域を保全するためにほかならない。すべてに国益が優先し、島民の安全などは無視されてしまうので、調査に動員された科学者たちは島々を救うために独自の秘密プロジェクトを立ち上げる。そこで登場するのが「圏間基層情報雲」理論なる仮説で、それによるとふつうには認識できない領域に生物圏と鉱物圏にまたがる情報の蓄積と流通があるらしい。事実なら石は記憶を備えていることになるし、手段さえあれば細菌との対話も可能になる。人間の力で地殻変動に干渉するのは不可能でも、大自然の力を借りれば結果を得ることができるかもしれない。科学者たちはこの仮説を頼りに自然界へのアクセスを試み、やがて与那国島の民間信仰にたどり着く。科学がアニミズムと合体し、巫女がゴーグルディスプレイを装着するのである。
 荒唐無稽、と言えば不安になるほど荒唐無稽な話だが、作中に織り込まれている膨大な量の情報とつきあうことになるせいで、あいにくと荒唐無稽さを感じているような暇はない。地質学者や生物学者、認知心理学者や量子工学者、音響工学の専門家、さらには宇宙生物学者までが登場してそれぞれに専門分野の知識を披露し、誰もが驚くほどよくしゃべり、説明の手間を省こうとしない。そこへ与那国島の民間信仰に関する説明も加わり、海底ではハイテク深海調査船が動き回り、地球の地殻を掘り抜く大深度掘削船が海上にその威容を誇って現われる。ハイテク・メカニズムの説明にも相当な紙数が割かれており、はなはだ個人的な好みとして深海調査船の精密な描写には感じ入ったし、着想に裏付けを与える精緻な取材と科学に対する真摯な態度には感心した。全編を通じて、これはまさしく「科学小説」であり、その観点から作品に対する著者の姿勢は優れて啓蒙的なのである。
 とはいえ、その一方、「科学小説」の宿命として小説的な機能は少なからず犠牲にされているように見える。会話の多くは説明のために存在し、説明を優先するためにキャラクターはしばしば後景に退いて中立化される。場面の展開は一本調子で、手法にもリズムのようなものは格別感じられない。ふつうに小説を読むように読んでしまうと、印象が単調になるのは避けられない。だからここはひとつ、科学者たちとつきあうことを楽しんだほうが賢明であろう。長々とおしゃべりをしているうちに好奇心に振り回されて、これは面白い、などと言いながら脱線しかかる科学者たちは、なかなかにかわいらしいと思うからである。
(週刊現代 2005/9/15号)


Tetsuya Sato