2012年5月31日木曜日

アメリ

アメリ
Le Fabuleux D'Amelie Poulan
2001年 フランス 121分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ

ちょっと神経質な両親に育てられたアメリは空想へと傾斜する傾向があり、そのせいで大人になっても恋ができないでいる。ところがある日、リヨン駅の証明写真用のブースの下を棒で突っついている青年を見かけて心に感じ、近づくためにひどく迂遠な行動を選択する。
空想的な女の子、といっても空想の部分は控えめで、雲がウサギの格好だったりクマの格好だったり、写真が話しかけてきたり、といったくらい。本人は自分の問題をちゃんと把握している。アメリ役のオドレイ・トトゥはなかなかに魅力的。両親や勤め先のカフェの周辺、アパートのご近所といった周辺人物の書き込みが細かくて、その語り口が心地よくて面白い。作りが丁寧で、絵も美しくて、見ていて気持ちのいい映画なのである。



Tetsuya Sato

2012年5月30日水曜日

ロスト・チルドレン

ロスト・チルドレン
La Cite des Enfants Perdus
1995年 フランス 112分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ

半ばまで水に浸かって錆が浮き出したような陰鬱な町で子供たちがさらわれていく。サーカスの怪力男ワンの弟も誘拐され、ワンは弟を探すうちに少女ミエットと出会い、ミエットの協力で手がかりをつかみ、沖に浮かぶ謎の研究所を目指して進んでいく。
異様なキャラクター、港湾施設を含む巨大な町のセット、マッドサイエンティストの研究所のセットとそこを埋め尽くす様々なギミックに目を奪われ、ミエット役の美少女ジュディット・ビッテにも目を奪われる。視覚的に目を奪われることの多い映画だが、これはもしかしたら監督の功績ではなくて、美術とキャラクター・デザインを担当したマルク・キャロの功績かもしれない。ジャン=ピエール・ジュネの演出は生真面目ではあるがリズムを欠き、コミカルな場面でもしばしば勢いを殺している。とはいえ、ていねいに作られた立派な映画であることは変わらない。おとなとタイマンを張るジュディット・ビッテの迫力はとにかく見物。孤児院を仕切る悪い双生児の老婆(オディール・マレ、ジェヌヴィエーブ・ブリュネ)の怪演も見物。怪力男ワンがロン・パールマン、怪優ドミニク・ピノンが一人七役で登場し(とはいえ、そのうちの六人は区別がつかない)、ジャン=ルイ・トランティニヤンが脳味噌(ジェイムスン教授みたいなやつ)の声を担当している。




Tetsuya Sato

2012年5月29日火曜日

メンデス・ピント『東洋遍歴記』

メンデス・ピント『東洋遍歴記』 翻訳:岡村 多希子(東洋文庫)


16世紀ポルトガルの冒険商人メンデス・ピントの回想録で、1537年から1558年まで、21年間にわたってマレー、ビルマ、中国、沖縄、日本などを遍歴した体験がつづられている。その間に何度なく難破した上に何度となく海賊に襲われて都合13回捕虜となり、諸般の事情で16回も売られたということになっているが、解説によると、そうしたことの回数も含めてかなりのホラや誇張が入っているらしい。なにしろ開巻3ページ目でもうフランスの海賊に襲われているし、その5ページ先ではイスラム教徒と交戦している。そこからさらに6ページほど先ではトルコのガレー船と遭遇し、
 トルコ人は私たちの意図を察しあるいは感付くと、大きな叫び声をあげ、「使徒信経」を1回唱えるほどの間もなく全船帆を揚げて、四色に染め分けた帆と無数の絹の旗をはためかせてこちらの船跡を追ってきた。
で、負けて捕虜になって、トルコ人の町へ連行されて引き回され、
 家に引っ込んでいる女までが、また少年や子供たちが、キリストの御名を侮辱し軽蔑するために窓から小便の入った壺を盛んに投げつけた。
といった具合になる。なお、この世界の西側ではキリスト教徒とイスラム教徒が互いに海賊行為を働いていて、殺しあったり拷問しあったりして飽くことを知らない。東へ移動していくと中国やタイやビルマの人々、さらに日本人も加わって、やっぱり互いに戦争をしかけたり略奪を働いたり殺しあったり拷問しあったりしているのである。まあ、ひょっとしたらそのようなものなのあろう。で、そういうことなので語り手はとにかくあちらこちらで「我が罪ゆえに」辛酸をなめることになる。たぶん、ふつうだったら生きてない。人間が危険なら自然も危険なので船はすぐに難破するし、難破すれば裸で洋上に放り出されて海藻をしゃぶりながら生きながらえる。苦労して陸を見つけて一文なしになって上陸すれば怪しいということで逮捕され、そして当然のことながら監獄の環境は劣悪で、中国では仲間がシラミに食われて死んでしまう。ちなみにその中国では北京がタタールによって包囲されつつあって、作者によると
 これには27人の王が加わっていると言われ、彼らはおよそ180万人の部下を擁しているとのことで、うち60万人が騎兵で、彼らは糧食と全物資を積んだ8万頭の犀とともに
やって来た、らしい。60万もの騎兵がいたら馬のいばりで国が沈もうし、そうでなくとも8万頭の犀は嘘である(でも、どうして犀なんだろう?)。なんだかエドモンド・ハミルトンのスペースオペラみたい、という感じだが、日本への鉄砲伝来(1543)、フランシスコ・ザビエルの布教活動(1549)、ザビエルの死(1552)などを至近距離で目撃したような記述があって興味深い。とはいえ、この聖なる神父ザビエルも登場してくるとほとんど無敵で、なんだかまるでレンズマン。東洋の奇習に関する数々の嘘八百、無教養を恥じともしない乱雑な記述もまた魅力でもある(読み通すのはつらいけど)。




Tetsuya Sato

2012年5月28日月曜日

伊坂幸太郎『あるキング』

 伊坂幸太郎氏の長編『あるキング』のあらすじはおおむね次のとおりである。
 最下位に根を生やしたような弱小球団の地元で生まれた男の子が生まれて間もない頃からバッターとしての素質を現わし、リトルリーグの段階でプロの投手の投げた球をホームランにするほどの才能を発揮するものの、いつしか社会的な迫害にさらされて苦難の道を歩まされ、地元の球団への入団を果たしてプロ野球の選手になってからも、天才であるという、言わば不正行為によって憎悪を浴びることになり、理解する者も励ます者もわずかしかない。しかし最後には静かに長引く深い感動が訪れる。
 主人公を呪われた野球人生へと導いていくのは地元弱小球団の熱烈なファンである両親だが、この両親が抱いているのは野球狂の妄念のようなものではなくて自分に振られた役割に対する明瞭すぎるほどの自覚であり、息子もまたそれを受け継いで自分の役割を黙々と果たしていく。本来ならば必ずどこかにあるはずの、立ち止まって人生への疑問を抱くための瞬間がここには用意されていない。何かがおかしいと感じる暇もないところで登場人物の行動はときとして不自然なほど目的と一致し、周辺で起こる小さな雑音までが目的に回収されてしまう。
 これはこの作品がもっぱら伝記的な手法によって記述されているからである。いちおう三人称の形式を備えてはいるものの、顔の見えない語り手の存在が明示されることで伝承的な意味合いが強化され、一方で小説的な機能は後退し、完成された偉大な人生を物語るという目的に沿って小説的な細部は脱落していく。
 つまり伝記的な記述にからめ捕られることで人生はかなり単純になり、偉人伝における人物の行動であるという理由から、行動は原則として合目的化されるのである。強引なまでに合目的化されているという事実は新たに出現する二人称の語り手によって主人公に伝えられるが、この二人称の語り手も三人称の語り手と同様に歴史的な視点に立っているため、その声が現在進行形の主人公に本当に届いているのかどうか、読者にはまったくわからない。読者にわかるのは主人公を見守り、その存在を肯定する頼もしい声がどこかから響いているということだけである。そして主人公を包囲する伝記的な記述の外側から一人称の語り手がときおり現われ、主人公を現実の視野に置いて他者としての実感を備えた肉体を与える。ここに見えるのは天才といういかにも不可解な存在を、不可解なままいかにして描くかという卓越したアプローチであり、小説という表現手法に対する誠実な考察の結果にほかならない。そうして立ち現われる天才の孤独は恐ろしいまでに生々しく、天才が放つホームランは痛いまでに悲劇的なものとなるのである。
(週刊現代 2009/10/17号)


Tetsuya Sato

2012年5月27日日曜日

ワイルド7

ワイルド7
2011年 日本 108分
監督:羽住英一郎

自動火器で武装した銀行強盗の一団が人質を取って逃走すると、ワイルド7が出動して、ワイルド7のトレーラートラックが犯人の乗った車をぽーんと空中に投げ上げ、そこへバイクにまたがってワイルド7のメンバーが現われて犯人たちを退治すると、続いて製薬会社から国家機密級の殺人ウィルスが盗み出され、盗んだ犯人はウィルスを搭載した飛行船を東京上空に浮かべて二億ドルを要求するので公安調査庁の秘密機関PSUが群衆の中から犯人の所在を割り出し、ワイルド7が出動して事件を解決すると、ワイルド7の指揮官草波隊長がいったいどういう脈絡で思いついたのか、事件の直前における製薬会社の株の動きに注目し、事件の公表を遅らせて株で大もうけした人物がいると考え、それはPSUの主任情報分析官である桐生圭吾以外にないと推理すると、その桐生圭吾は相手が何も言わないうちから状況を察して自分は犯罪社会が引っくり返るような秘密をことごとく握っていると主張して草波隊長に挑戦し、察するによほどの秘密を握っているのであろう、桐生圭吾がパーティ会場の隅っこでそうつぶやいただけで桐生圭吾が握る秘密を恐れた政府は草波隊長の身柄を確保してワイルド7を指名手配するが、ワイルド7は警察の手から逃れてPSUを襲撃する、というような少々寝ぼけたような話と並行して深田恭子が復讐のために犯罪者を殺して歩いているのである。
この深田恭子に加えてさらにワイルド7の謎を追う新聞記者まで追加した結果、登場人物がインフレを起こして肝心のワイルド7のメンバーにしてからがほとんど消化されていない。というよりもワイルド7である必要があったとは思えないくらい希釈されていて、素直に深田恭子主演でアクション映画にしたほうがよかったのではないか、という気もしないでもない。もしかしたら『ワイルド7』という企画自体にあまり関心がなかったのではあるまいか。
キャラクターの未消化、要領を得ない脚本、意味のないモノローグ(なあにがランブルフィッシュだ)、アクションシーンのつなぎの悪さ、暴力性の不足、とあれやこれやの欠点が目立つ映画だが、撮影はそれなりにしっかりとしていてロケ効果を出しながら情報量の多い絵を作ることに成功しているし、セット、プロップ、バイクなどは非常によく出来ていて、つまり出来の悪い脚本も含めてあれやこれやの素材をまとめている、という点ではなにかしらまとまっていると言えなくもない。





Tetsuya Sato

2012年5月26日土曜日

マイレージ、マイライフ

マイレージ、マイライフ
Up in the Air
2009年 アメリカ 109分
監督:ジェイソン・ライトマン


ライアン・ビンガムは解雇通告を専門とするオマハの企業に勤務して年間の大半を出張で過ごし、アメリカン航空のマイレージを一千万マイルためることを目標に据え、全米各地を訪れて見知らぬ相手に解雇を通知し、モチベーションにかかわる講演では演壇に立って自分の人生がいかに身軽であるかを話していたが、その人生に自分と同類であるかのように見える女性アレックス・ゴーランが出現するとゆきずりのはずの関係をあとに引きずり、会社では女性社員ナタリー・キーナーがネットを利用した解雇通告を主張すると反発し、ナタリー・キーナーが新人であることを理由に業務への無理解を主張するとナタリー・キーナーの研修をまかされ、二人で各地を訪れているうちにナタリー・キーナーの若々しくて凡庸な価値観に触れ、気の合うアレックス・ゴーランとの再会と別れを繰り返して寂しさを味わい、察するにそのせいであろうか、それまで顧みなかった自分の家族のことを思い出し、アレックス・ゴーランを誘うと妹の結婚式に出かけていって、そこで状況に強いられて人生の伴侶の価値について話すことになり、察するにそれでいよいよ寂しさがつのることになったのか、自分もまた人生を少し重たくしようと考えてこどもじみたふるまいに走り、ありそうな現実から反撃を食らう。
精神の変転を経験する主人公をジョージ・クルーニーが好演し、アレックス・ゴーランを演じたヴェラ・ファーミガ、ナタリー・キーナーを演じたアナ・ケンドリックがいずれも魅力的で、ジェイソン・ライトマンによる丹念な演出が心地よい。この監督は俳優の使い方が非常にうまいと思う。淡々とした作品ではあるが、見ごたえがあった。 






Tetsuya Sato

2012年5月25日金曜日

Juno/ジュノ

Juno/ジュノ
Juno
2007年 アメリカ 96分
監督:ジェイソン・ライトマン


16歳の高校生ジュノ・マクガフは同級生のポーリー・ブリーカーと格別の交際関係がないにもかかわらず一度だけ性行為をおこなって妊娠したところ、性的に活発であるという評価を友人から獲得するが、それはそれとしてまず堕胎を考えてそのたぐいの支援機関に予約を入れ、支援機関を訪れて待合室から逃げ出すと出産することに決めて養子を求める夫婦を探し、状況を両親に報告して性的に活発であるという評価を獲得し、それから父親とともに養父母の候補の家を訪れ、以降、状況はおおむね順調に進展するが、ポーリー・ブリーカーとの関係では整理のつかない気持ちを抱き、養父母候補のほうでも夫婦に温度差のあることを知り、この夫婦のあいだに走る亀裂を見てジュノ・マクガフは愛について失望を抱くが、自分が抱く愛について思いいたり、無事に男児を出産する。
ジェイソン・ライトマンの演出のうまさもたぶんにあるのだとしても、エレン・ペイジが魅力的で、主人公をとりまく人間も実によくできている。脚本の出来もよいのだと思う。絵もきれいだし、構成もバランスが取れているし、ということで、とてもしあわせな映画であった。





Tetsuya Sato

2012年5月24日木曜日

サンキュー・スモーキング

サンキュー・スモーキング
Thank You for Smoking
2006年 アメリカ 93分
監督・脚本:ジェイソン・ライトマン


タバコ研究アカデミーの広報部長で、つまりタバコ業界のロビイストであるニック・ネイラーはタバコを弁護するために飛び回り、多くのひとに嫌われ、憎まれていたが、息子から尊敬され、銃器業界のロビイスト、アルコール業界のロビイストといったよい友達にも恵まれている。ところがワシントンの新聞の女性記者がニック・ネイラーの秘密をすっぱ抜き、ネイラーはタバコ業界からも追われて窮地に立つが、息子に励まされて立ち直り、嫌われ者(タバコ会社や森林伐採業者、地雷製作者や子アザラシを殺している連中など)を守るために舌先三寸で戦うことで一念奮起し、反タバコキャンペーンの公聴会に乗り込んでいって禁煙派の上院議員と一戦を交える。
状況をことさらに戯画化するのではなく、大げさにするのでもなく、なんとなくそれらしくするだけでかなり滑稽に見えるという確信にしたがって進めたことで、たいそう冷笑的な内容に仕上がっている。結果として浮かび上がってくるのは誰もが自分のローンの支払いのために人間の尊厳の売り買いをやっているという構図であり、恐ろしいことにその先がない。アーロン・エッカートは前向きのキャラクターを演じて、この妙に有能なロビイストにリアリティを与えている。語り口のリズムはよく、視線の動きも切れがいい。これが監督一作目、ということだが、父親(アイヴァン・ライトマン)よりもセンスがだいぶいいような気がした。






Tetsuya Sato

2012年5月23日水曜日

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』

 ここ数年、ミステリーの領域からいわゆる推理小説という枠組みではくくり切れない新しい才能が現われている。二〇〇〇年に第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞して登場した伊坂幸太郎氏もその一人である。
 デビュー作となった『オーデュボンの祈り』は宮城県沖の孤島で起こった連続殺人事件といういかにもありそうな大枠を与えられているものの、ありそうなのはそこまでで、そこから先は徹底して異質な方向へと発展させられていく。つまり島は百五十年前から鎖国状態にあり、喋るカカシが田んぼの真ん中に立っていて、カカシはただ喋るだけではなくて知性を備えている上に未来のことも予言もするし、おまけに連続殺人の最初の犠牲者にもなってしまう。
 続く『ラッシュライフ』は互いに近接する五つの話が不気味なほどに心地よくすれ違いながらほぼ同時に進んでいくという凝った造りになっていたし、『重力ピエロ』は迂遠な形態を備えた復讐劇が五十を越す「話題」と文学テクストからの無数の引用、韜晦の多い会話から構成されており、一人称の語り手はその誠実そうな語り口に反して必ずしも信頼に値しない。
 小説の機能を酷使しているという点で、伊坂氏のたくらみはきわめて文学的である。そしてそうした傾向は五作目の長編作品となる『アヒルと鴨のコインロッカー』にもはっきりと見ることができる。
 まず目を惹くのが扉の次のページで待ち構えている一行である。太い文字で「この映画の製作において、動物に危害は加えられていません」という意味の英文があり、下に小さく和訳が添えられている。アメリカ映画のエンディング・クレジットでよく見かける但し書きで、これが現われると見ているこちらはどの場面のことだかわからなくても、なんとなくほっとすることになる。かわいい動物たちが一度も危険な目にあわなかったことがそれでわかるからである。
 ここではその但し書きがわざわざ物語の開始に先立って引用されることにより、本編中において動物が危険な目にあわされることが逆説的に明かされることになる。すでにして不穏である。そしてその次のページでは語り手の一人である「僕」がいきなりモデルガンを握り締めて書店襲撃に加担している。なかなかに異様である。ページの表と裏を使って不穏にして異様というのは下手がやれば奇をてらったことにしかならないが、伊坂氏は独特のモノローグを含んだテクストを淡々と進めることでそれをスタイルとして見せてしまう。うらやましい才能と言うべきであろう。
 とはいえ、ここはまだ序盤であり、本当に注目しなければならないのはもちろん小説の本体にほかならない。
 最初に登場する「僕」は二十歳前の若者で、東京にある実家を出て、大学生活を始めるために仙台のアパートに移り住む。山積みになった荷物を片づけるうちに黒い猫と遭遇し、段ボール箱を片づけにちょっと廊下へ出たところで黒ずくめの男と遭遇し、有無を言わさぬ状況の力強さに巻き取られて夜中に本屋を襲撃することになる。
 次に登場する「わたし」は二十台なかばの女性で、仙台市内のペットショップで働いている。そして迷子になった黒い柴犬を探しているうちに夜の公園で倫理にもとるふらちな三人組と遭遇する。
「僕」と「わたし」のあいだには二年間の時差があり、「僕」のまわりにいる人物は二年前の出来事とその結末を知っている。二年前の「わたし」が追いかけている事件は、二年後の「僕」の世界ではほとんど触れられることがない。事件はただ風化したかのように見え、登場人物は健全な連続性を保っているかのように見えるが、物語が進行するにしたがって決してそうではないことが明らかになってくる。
 普通に回想形式を用いれば、このプロットはよりドラマティックに描き出されたに違いない。三人称して均してしまえば平坦ではあっても読みやすいテクストになったことだろう。ところが伊坂氏はそうする代わりに物語を真っ二つに割って二年間の時差をはさみこみ、一人称の語り手を二人送り込んで両者のあいだに視点と時間のひねりを加える。そうすることで物語はただ語られるものではなくなり、見えるものと見えないものとが互いに微妙な角度を持って折り重なり、多面的な宇宙を構築することになるのである。
 その効果を映画の手法にたとえてみれば、スプリット・スクリーンに似ていなくもない。ただし、ブライアン・デ・パルマがよく使っているような通常のスプリット・スクリーンが同一の時間帯に属する異なる画像を同時に映し出すのに対して、伊坂氏のスプリット・スクリーンは時間差をも扱ってみせる。もちろん映像作品でも時間差を持ち込むことは可能だが、それはただ単に画面を分かりにくくするだけであろう。伊坂氏は小説という表現形式にしかできないことを考えて、その成果を見せているのである。
 それにしてもこの人物造形はどうであろうか。読み進めるにしたがって、読者はこの作品に魅了されるはずである。
 時間のずれが光の綾織りのように波打っているからではない。一種の禁じ手と言ってもいいような恐ろしい展開が待ち受けているからでもない。ステレオタイプを拒絶した人物が次から次へと現われて、みずからに忠実であろうとするからである。
 超人は一人も登場しない。いずれも市井の人物ばかりだが、退屈な常識に魂を売った者は一人もない。信じているのは自分自身の良心だけで、みずからの霊感にしたがうことを恐れない。だから平凡な隣人の皮をかぶっていても正体はそうとうにアナーキーなのである。いや、人間であるからには、そうでなくてはならないのだ。
(週刊現代 2003/12/20-27合併号)


Tetsuya Sato

2012年5月22日火曜日

巨匠とマルガリータ

巨匠とマルガリータ
Master i Margarita
2005年 ロシア 499分 TV
監督:ウラジーミル・ボルトコ


1930年代のモスクワ。作家連盟の議長ベルリオーズと詩人ベスドームヌィが公園で反宗教詩の機能について話していると、そこへ外国人の紳士が現われて話に加わり、神を肯定し、ポンペイウス・ピラトとイエスの関わりを語り、ベルリオーズの死を予言する。そしてベルリオーズが予言どおりの仕方で死ぬとベスドームヌィはこれは敵による攻撃であると確信して紳士を追いかけ、事実をありのままに告白して精神病院にぶち込まれる。ベスドームヌィは病院で巨匠と名乗る男と出会い、巨匠はベスドームヌィに請われるままに自分がそこにいる理由を語り始めるが、つまりポンペイウス・ピラトとイエスの関わりを描いた小説を書き上げたところ、出版をことごとく断られ、愛人マルガリータの勧めにしたがって断片を公表したところ批評家から酷評され、すっかり精神を痛めつけられている。一方、ベスドームヌィが追った男はヴォランドと名乗って劇場に現われ、魔法によってモスクワ市民を幻惑し、作家連盟を破壊し、内務人民委員部を混乱に陥れ、巨匠を失って悲嘆に暮れるマルガリータを舞踏会の女王に招き、事実上の魔女と化したマルガリータは批評家の自宅を襲って部屋を破壊する。さらに女王役を務めた報酬として巨匠を取り戻し、巨匠とマルガリータは世界に対して別れを告げる。
10話構成のTVシリーズ。白状するとブルガーコフの原作は未読である。演出は愚直だが、忍耐強く、映像化の過程で都合のよい省略をおこなっていない。演劇的な空間が明確に構成され、出演者は非常に充実した仕事ぶりを示している。30年代のロシアを再現するために顔、衣装がよく選ばれ、雰囲気に厚みがある。洗練された作品ではないが、ひとを引き寄せる力がある。






Tetsuya Sato

2012年5月21日月曜日

リアル・スティール

リアル・スティール
Real Steel
2011年 アメリカ/インド 128分
監督:ショーン・レヴィ


2020年、人間にかわってロボットがボクシングをする時代が訪れ、元ボクサーで人生に間違いの多い男チャーリー・ケントンは有り金をはたいて買ったロボットでどさまわりをして(テキサスの田舎で牛と戦うとか)糊口をしのいでいたが、ロボットを失って途方に暮れているところで元妻の訃報が届いて十一歳になる息子マックスが目の前に現われるので、マックスの養育権を十万ドルで売って(つまり息子を売って)新しいロボットを買い、自分の代金の半分を求めるマックスを連れて出かけていくと、マックスの忠告に耳を貸さずに新しいロボットの使い方もよく理解しないまま戦術も考えずに無謀な試合に挑んでまたしてもロボットを失い、修理のための部品を求めて廃品置き場にもぐり込み、そこでマックスが古ぼけたロボットを見つけて持ち帰るとこれがまだ動くので、マックスはこのロボットを試合に出すようにチャーリー・ケントンに懇願し、場末の試合に出してみるとこれがよく戦う、ということで、連勝を重ねるうちにマックスのロボットは有名になり、間もなくWRBの公式試合の前座に招かれ、この試合にも勝利を得るとリングに上がったマックスはマイクをつかんで王者ゼウスに挑戦し、チャーリー・ケントンとマックスの親子は無敵の王者ゼウスとの試合にのぞむことになる。 
プロットはシンプルだが、細部がよく練り込まれ、語り口はスピーディーでよどみがなく、ロボットの試合は非常に迫力がある。実物大のロボットのモデルとCGの使い分けが非常にうまくて、まったく見分けがつかないほどの出来栄えなのにはとにかく感心したし(特殊効果にスタン・ウィンストンの弟子筋が参加していて、ロボットを17体作成したらしい)、試合のバックヤードの描写がまたリアルで、いかにもという雰囲気に仕上がっている。充実した作品だと思う。ヒュー・ジャックマンのだめ親父ぶりがいい感じで、マックス役のダコタ・ゴヨはたいそう元気がいい。 






Tetsuya Sato

2012年5月20日日曜日

銀河ヒッチハイク・ガイド(2005)

銀河ヒッチハイク・ガイド
The Hitchhiker's Guide to The Galaxy
2005年 アメリカ/イギリス 109分


ある日、地球は超空間バイパス工事のために破壊され、アーサー・デントはベテルギウス人の友人フォード・プリフェクトとともに宇宙へ飛び出す。
ダグラス・アダムスの同名のラジオドラマ・小説の映画化。ダグラス・アダムス自身が生前、脚本に参加していた、ということで、そのせいか、原作の世界の雰囲気は大切にされているし、主筋もおおむね忠実に押さえられている。そして肝心な枝葉末節もきちんと消化されていて、つまりヴォゴン人はとてつもなくヴォゴン人だし、そのヴォゴン人はハシリガニを金槌(というか肉叩き)で叩き潰しているし、ヴォゴンスフィアに住む「ガゼルのごとき生物」はヴォゴン人の背後で死体だか剥製に成り果てている。宇宙船「黄金の心」号の不可能性ドライブの描写にもなかなかの説得力があり(毛糸状態になったクルーがかわいらしい)、それを盗む銀河帝国大統領ゼイフォード・ビーブルブロックスはアホ丸出しだし、ロボットのマーヴィンはマーヴィンで、しかもその声がアラン・リックマンで、おまけにディープ・ソートの声はヘレン・ミレン、イルカの歌も気が利いている、さらに加えてライトセイバーが食パンを切りながらトーストするのに使われている、ということになると、演出に多少の素人臭さが見えたとしても、こちらとしては文句をつける理由はないのである。






Tetsuya Sato

2012年5月19日土曜日

銀河ヒッチハイク・ガイド(1981)

銀河ヒッチハイク・ガイド
The Hitchhiker's Guide to The Galaxy
1981年 イギリス 全6話・各33分 (TV)
監督:アラン・J・ベル


ある日、地球は超空間バイパス工事のために破壊され、アーサー・デントはベテルギウス人の友人フォード・プリフェクトとともに宇宙へ飛び出す。
ダグラス・アダムスの同名のラジオドラマに基づくBBCのミニシリーズで、小説でいうと一巻目『銀河ヒッチハイクガイド』と二巻目『宇宙の果てのレストラン』までを含んでいる。脚本もダグラス・アダムズが担当しており、当然ながら主筋は原作に忠実なものとなっているが、重要な言及(ヴォゴン人に関する)や主要なエピソード(アーサー・デントのお茶、「ガイド」ビル」)が割愛されている。このあたりは元々ラジオドラマにはなくて、小説にしかないのかもしれないが、小説から入った人間からすると少しさびしく感じたのである。BBCの予算で作られたものなので視覚的にはかなりわびしいし、演出面でもはったりの乏しさが見えなくもないが、あの語り口が好きな人間にはそれなりに楽しめる作品に仕上がっている。 




Tetsuya Sato

2012年5月18日金曜日

戦争と平和(1965-1967)

戦争と平和
Vojna i mir
1965-1967年 ソ連 424分
監督:セルゲイ・ボンダルチュク


トルストイの「戦争と平和」を大真面目に映像化した6時間の超大作。ソビエト連邦という国家はただこの映画を作るためだけにこの世に生まれたのだと言って差し支えないだろう(同じような映画に 「ヨーロッパの解放」があるが、これは駄作) 。とにかくスケールが桁外れで、ほかの国でこんな映画が作れたとはとても思えないのである。しかもその仕上がりは 大蟻食も言っているように 原作を越えている。余計な説教は抜きにして、とにかくやるべきことをきれいにやっているのだ。キャスティングは原作のキャラクター・イメージそのまんまだし、戦闘シーンはソビエト陸軍大動員で、画面は人馬と砲列に埋め尽くされる。戦場に長大なレールを敷いて、ばらばらに展開するいくつもの小さな戦闘をワンショットで収めていたりもする。触りがアウステルリッツで、事実上のクライマックスはボロジノの会戦である。そしてもちろんモスクワはちゃんと炎上する。強いて難点をあげれば舞踏会のシーンに登場する男女の踊りっぷりが一目でバレエダンサーのそれととわかることくらいで、これはいささか妙な感じがする。だが傑作は傑作で、これを週末の午前中から見始めて、午後にかけてゆっくりと見終えると実に心地よい。なお、DVD/LDに収録されている画像は悲しいことにかなり退色が進行している。人類共通の財産と言ってもいいような映画なので、修復が望まれる。 




Tetsuya Sato

動くな、死ね、甦れ!

動くな、死ね、甦れ!
Zamri, umri, voskresni!
1989年 ソ連 105分
監督:ヴィターリー・カネフスキー


極東の町スーチャンで母と暮らす少年ワレルカは学校のトイレのイースト菌を混入したことで叱責を受け、さらに鉄道のポイントをいじったことで列車を脱線させたことから家に帰るに帰れなくなり、列車に乗って町を移り、そこでも警官に追われたことから社会的親近分子の仲間となり、強盗に手を貸したりしているうちにスーチャンから近所の少女ガーリヤが迎えに現れるので、密告を恐れた社会的親近分子の追手から逃れてスーチャンを目指す。
第二次大戦直後が背景になっていて、スーチャンの町にはどうやらラーゲリがあり、日本人捕虜が収容されている。劇中での説明は一切ないが、ワレルカの母親ももとは囚人で、釈放後も町にとどまって自由雇用人をしているように見える。モノクロの映像で映し出されるスーチャンの町はひたすらにわびしく、地面はただもうぬかるんでいる。人心はすさみ、口から出る言葉は荒々しく、挙動に優しさを見つけることは難しい。おそらくは見たままであろう、さまざまな意味での最果てぶりは重みをもって見ている側にのしかかるが、一方、時折前景化するストーリーが妙にわずらわしい。 




動くな、死ね、甦れ!【字幕版】 [VHS]

Tetsuya Sato

エルミタージュ幻想

エルミタージュ幻想
Russkij kovcheg
2002年 ロシア/ドイツ 96分
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 


一人称のカメラと監督本人と思しき眠そうな声がエルミタージュ宮殿を背景にしてロシアの歴史を素描していく。一人称の語り手はエルミタージュの中で目覚め、ここはどこかと戸惑いながら進んでいくと同じように戸惑っている西欧人に遭遇する。西欧人は19世紀初頭のフランスの外交官であったことが判明するが、語り手はこの外交官とともにピョートル大帝の時代から現代までのロシアをエルミタージュを媒介にして斜めに眺めていくことになる。風変わりでアーティフィシャルな作品である。
エルミタージュはあきれるほどに壮麗だし、収蔵品の素晴らしさはスクリーンを通してもはっきりと感じられる。しかしながら前景に配置された意味不明の二人組(監督とヨーロッパ人)による対話は感傷へと流れていくばかりで肝心なことには触れようとしない。ロシアの歴史について語るならば、あそこではもっと多くのことが起こった筈だし、語り手たちはもっと雄弁であってもよかった筈だ。あるいは口を閉ざしてストイックに映像だけを展開した方がよかったかもしれない。政治的な中庸が選択されているのか、エルミタージュ観光映画だからそうなのか(そうならば目的は達している)、それともこれがロシア的な諦観なのか(だが元レニングラード市民諸君、あれは自由の代償だったのか?)。この種の映画は難点が多い。ハイビジョン・カメラとハードディスク録画によって映画史上初の90分ワンカットを実現した、というのがどうやら売りらしいのだが、ワンカットでなければならない意味が残念ながらわからなかった。逆にワンカットにしてしまったせいで照明がフラットになって映像も平板になってしまっているし、登場人物も不自然な動きを強いられている。もしかしたら思いつき以上のものではないのかもしれない。クライマックスの舞踏会のシーンを重ね合わせて考えると非再現的な手法が意図的に選択されている可能性もうかがえるが、ポイントがまるで見えてこないのでどうにも評価できないのである。 






Tetsuya Sato

2012年5月16日水曜日

クヒオ大佐

クヒオ大佐
2009年 日本 112分
監督:吉田大八

第一部「血と砂と金」で湾岸戦争が勃発し、日本人のほとんどがおそらくはあまり思い出したくはないであろう例の90億ドルが話題になり、外務省某所で怪しい会合がおこなわれていたかと思うと、いきなり第二部「クヒオ大佐」に話がうつり、合衆国海軍の制服に身を包んだ自称クヒオ大佐が弁当屋の女社長、こども科学館の学芸員、銀座のバーのホステスなどに粉をかけ、この安っぽくてずさんな偽装がなぜばれないのかとこちらが不思議に思っていると、もちろん、ばれるときにはすぐにばれてしまうので、脅されたり、笑い者にされたり、追いかけられたりして、結果としては本人がけっこう恐ろしい思いをすることになる。
堺雅人の裏が見えるようで見えない演技がまず面白いし、弁当屋の女社長の弟、刑事といった傍目に面倒な要素などもたくみに処理されている。どちらかと言えば淡々とした演出ではあるが、それぞれの場面の描写に厚みがあり、撮影も美しく、登場人物に無駄がなく、俳優がみなよい仕事をしている、ということで、見ごたえのある作品に仕上がっている。冒頭の90億ドルの問題も最後になってしっかりと、しかもかなりダイナミックに回収されているところには感心した。これはよい映画である。 




Tetsuya Sato

2012年5月15日火曜日

藤崎慎吾『ハイドゥナン』

 天変地異を扱う物語では人類は概して無力である。相手が巨大な隕石のたぐいであれば、もしかしたら割ってしまうこともできるかもしれない。しかし地球が相手ということになり、それがまた地殻変動であったりすると、これはもう涙を呑んで耐えるしかない。
 本書『ハイドゥナン』では沖縄トラフに異変が起こり、急激な地殻変動によって南西諸島全体が沈没の危機にさらされる。日本列島と南西諸島という範囲の差はあれ、どこか『日本沈没』を思わせる設定だが、『日本沈没』に比べて本書が大きく異なるのは、涙を呑んで島々が沈むのにまかせるのではなく、それを阻止しようとたくらむところである。どうやって? という素朴な疑問への回答がこの小説の核となっている。
 危機を知った日本政府は秘密裏に調査活動に取りかかる。しかし、その調査というのは海底資源の開発に着手して既成事実を獲得し、排他的経済水域を保全するためにほかならない。すべてに国益が優先し、島民の安全などは無視されてしまうので、調査に動員された科学者たちは島々を救うために独自の秘密プロジェクトを立ち上げる。そこで登場するのが「圏間基層情報雲」理論なる仮説で、それによるとふつうには認識できない領域に生物圏と鉱物圏にまたがる情報の蓄積と流通があるらしい。事実なら石は記憶を備えていることになるし、手段さえあれば細菌との対話も可能になる。人間の力で地殻変動に干渉するのは不可能でも、大自然の力を借りれば結果を得ることができるかもしれない。科学者たちはこの仮説を頼りに自然界へのアクセスを試み、やがて与那国島の民間信仰にたどり着く。科学がアニミズムと合体し、巫女がゴーグルディスプレイを装着するのである。
 荒唐無稽、と言えば不安になるほど荒唐無稽な話だが、作中に織り込まれている膨大な量の情報とつきあうことになるせいで、あいにくと荒唐無稽さを感じているような暇はない。地質学者や生物学者、認知心理学者や量子工学者、音響工学の専門家、さらには宇宙生物学者までが登場してそれぞれに専門分野の知識を披露し、誰もが驚くほどよくしゃべり、説明の手間を省こうとしない。そこへ与那国島の民間信仰に関する説明も加わり、海底ではハイテク深海調査船が動き回り、地球の地殻を掘り抜く大深度掘削船が海上にその威容を誇って現われる。ハイテク・メカニズムの説明にも相当な紙数が割かれており、はなはだ個人的な好みとして深海調査船の精密な描写には感じ入ったし、着想に裏付けを与える精緻な取材と科学に対する真摯な態度には感心した。全編を通じて、これはまさしく「科学小説」であり、その観点から作品に対する著者の姿勢は優れて啓蒙的なのである。
 とはいえ、その一方、「科学小説」の宿命として小説的な機能は少なからず犠牲にされているように見える。会話の多くは説明のために存在し、説明を優先するためにキャラクターはしばしば後景に退いて中立化される。場面の展開は一本調子で、手法にもリズムのようなものは格別感じられない。ふつうに小説を読むように読んでしまうと、印象が単調になるのは避けられない。だからここはひとつ、科学者たちとつきあうことを楽しんだほうが賢明であろう。長々とおしゃべりをしているうちに好奇心に振り回されて、これは面白い、などと言いながら脱線しかかる科学者たちは、なかなかにかわいらしいと思うからである。
(週刊現代 2005/9/15号)


Tetsuya Sato

2012年5月14日月曜日

抑圧機関としての身体:押井守についての小論

飛行船の編隊飛行がなんとも言えずに美しい1993年の押井守監督作品『機動警察パトレイバー2 the Movie』を見ていたときのことである。
ラスト近く、特車二課の最後の突撃が終わり、東京を混乱に陥れた張本人、柘植行人が逮捕される。この柘植という人物はもともと自衛官で、東南アジア某国でのPKF活動中に自分の部隊が全滅するという状況に遭遇し(ありそうな話だが、上からの命令で敵対勢力への反撃を禁止された)、帰国してからは姿を隠して非合法の活動にかかり(つまり、そのくらい腹を立てたということであろう)、東京を舞台に様々な騒ぎを起こして架空の戦争状態を演出していた。平和の背後には戦争が現実の状態として存在することを偽りの平和に首まで浸かった人々に思い知らせるためであったが、それが失敗に終わって逮捕され、ヘリコプターに乗せられて東京湾を越えていくとき、刑事が前の座席から振り返ってこうたずねる。
「これだけの事件を起こしながら、なぜ自決しなかった?」
劇中では大半のことが、この閉塞感の内側で進行する。その結果として周辺に位置する一般社会は次第に影が薄くなり、それにしたがって倫理規定も後退し、誰が法を執行しているのかもあまり重要ではなくなっていって、最後にはただ自分たちの論理にしたがって自分たちの問題に直面していくだけ、というなんとも悲劇的な状態に陥っていく。こうした閉塞感の起点にあるのは現状への疑問や職業的な信念であり、閉塞感の形成を経て敵として認知されるのは外界にある何かではなくて、たいていは組織の上部構造である。この台詞にちょっと驚いた。警察官の口から出るような台詞ではなかったからである。犯人が自分で自分に判決を下すのを見て喜ぶ警官はいないだろうし、自分で判決を下していないという理由で犯人をなじる警官もいないだろう。察するに、このとき両者のあいだには警官と犯罪者という関係は成立していない。どうやら刑事は法の外側に立って話をしているが、犯人はそのことを気にしていないらしい。いや、それだけではない。犯人を捕まえた特車二課にしてからが、出動に先立って叛乱を起こしていたではないか。事件は解決され、犯人は逮捕されたことになってはいるが、その現場には肩書き以上の意味を持つ法の執行者は一人もいないし、だから我々が知っているような法秩序も存在していない。しかも、そのことを誰も気にしていないのである。  押井守氏の作品には、ときとしてこのような場面が出現する。たとえば『紅い眼鏡』『ケルベロス』から『人狼』へといたる系譜も架空の警察組織を背景としているが、この組織の役割はまず官僚機構の性格として自己保存プログラムを走らせることにあり、次に内部の構成員を抑圧することにあり、いずれにしても、外界に法秩序をもたらすことにはないように見える。そして組織の内部にあって上からの抑圧を受けた登場人物は、もっぱら内部の秩序とのみ関係を保ち、恭順と反発のはざまに立って、自分の周囲に深刻な閉塞感を形成していくことになるのである。
1995年の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』でも主要な抑圧は官僚機構のあいだに渡されたプロトコルが提供し、後半ではそこから発展する形で公安九課と外務省の闘争が開始される(その暴力性は原作の描写を上回る)。そして2001年の『アヴァロン』では電脳空間に展開されたゲーム・システムという形で抑圧機関が出現し、次の段階ではシステム自体が挑戦の対象へと姿を変える(ゲームだから当然である)。
登場人物たちは制度がもたらす重圧に直面し、決死の覚悟によってその状況を打開していく。だが打開に成功しても制度自体が消滅することは決してない。物語の古典的な法則に反して、抑圧からの解放を誰一人として望もうとしないからである。
 気の毒なことに、登場人物は居場所を抑圧装置の真下にしか見つけられないひとばかりで、その存在理由はしばしば抑圧装置によって規定されていて、したがって抑圧からの解放は、どうかすると存在の停止を意味している。同じ存在理由、同じ無為という点で、ここに登場する人々は一個の自我を共有しているようにも見えなくもない。
 結局、抑圧はそのままの姿で継承され、登場人物は閉塞感の内側にそのまま取り残されてしまう。そして取り残された人々は暗がりの中にひっそりとたたずみ、一人で、二人で、ときには三人くらいで集まって、ひそひそとつぶやくことをやめようとしない。それはとりあえず会話としての体裁を備えているが、おそらくは、会話の内容そのものよりも耳に届く響きのほうに重要な意味が与えられている。抑揚の乏しい淡々とした響きが作品に陰鬱な影を投げかけていくのだ。
『イノセンス』にも同じ種類の影を見つけることができる。
この映画の骨格になっているのは士郎正宗氏のマンガ『攻殻機動隊』の六番目のエピソードで、人間の形状をした愛玩用ロボットが人間を襲い、テロの可能性を疑った公安九課が乗り出してきて、おもにバトーとトグサの二人がコンビを組んで捜査活動を進めていく。映画の開巻からまもなく、鑑識を訪れたバトーとトグサは係官から育児行為と人形遊びの類似性に関するいささか奇怪な見解を長々と聞かされることになるが、その語り口は事実上のモノローグであり、意見の交換が予定されていない。会話をしているように見えても、実際には独り言を言っているだけなのである。しかも、その内容は後で出現する表象を予告するためのものであって、ストーリーを進行させるためのものではない。
目に見えない約束にしたがって、コミュニケーションはいつのまにか放棄されている。係官のモノローグが映画を包囲して暗い影を投げかけていくと、バトーも閉ざされた世界の中にたたずんで淡々とした声の流れに身を任せる。
ところが不意にトグサが口を開いて、そろそろ仕事の話がしたいと言い出すのである。トグサはバトーの同僚であり、形としては官僚機構という抑圧装置を共有している。それにもかかわらずトグサはバトーと同じ影の中に立つことを拒み、ひそひそ話を終わらせてストーリーを前に進めようと試みた。ここでは閉塞感は共有されていない。
ほかの場面でも、トグサは同じ台詞を口にする。
後半に入ってバトーとトグサは物証を求めて北端の都市エトロフへ飛ぶ(異様な都市景観は言わずもがなだが、着陸していくティルトローター機のあの姿、そして翼の動きは感涙ものであった)。そしてハッカーがひそむ世にも怪しい屋敷に侵入し、ハッカーによって用意されたいくつもの電子的な脱線に遭遇したとき、再び口を開いて、そろそろ仕事の話がしたいと言うのである。
閉塞感の形成プロセスにリセット・スイッチが挿入されていて、トグサがそれを押しているのだ。世界に影を投げかけるひそひそ話に、トグサは格別の意味を見出していない。では、主人公バトーと行動をともにする、このトグサとは何者だろうか。
まず、肉体的には異分子として位置づけられている。鑑識の場面にはバトーとトグサ、そして係官が登場したが、ここではトグサだけがサイボーグ化されていない。エトロフの場面にはバトーとトグサ、そしてハッカーが登場したが、ここでもトグサだけがサイボーグ化されていない。つまり、生まれてきたままの生身の肉体を備えているのである。
社会的な背景も、トグサはほかの登場人物と大きく異なっている。この世界ではおそらくトグサだけが普通に家庭生活を営んでいて、家には奥さんと小さな娘が待っているのである。原作では結婚記念日に仕事を放り出して家に帰ろうとするけれど、もちろん帰してはもらえない。原作のマンガではトグサは詰めの甘い半人前として扱われていたが、映画版『攻殻機動隊』ではトグサは単なる半人前ではなくて、草薙素子によって一般警察からスカウトされたという設定になっていて、その目的は攻殻機動隊というシステムに変数を与え、隊員の均質化を回避することにあったという説明が加えられている。
つまり、トグサ自身が価値観の共有を妨害するスイッチだったのである。『攻殻機動隊』では脇役であったトグサが『イノセンス』では前景に送られ、与えられた役割を着々とこなして世界の均質性を破壊していく。たとえば「仕事と家庭とどちらを選ぶか?」という単純な選択肢をトグサが内蔵するだけで、「我々の居場所はここにしかない」という悲劇的な閉塞感は悲劇性を失ってしまう。
この過程を経ることによって社会は多様性を獲得し、反対に虚構性を低減させてリアリティを主張するようになる。一方、そもそもから存在する「閉塞する」という目的は社会的な足場を喪失し、安定した自我を求めて内的宇宙へと沈潜していく。そこで関係性を個人の上に再構築して、ゴーストと義体という新たな対立を出現させるのである。影をまとったささやきはゴーストとなり、抑圧的な上部構造は義体という器に変容する。オープニング・タイトルに現われた胚(卵細胞)とそれを包み込む人形の身体(ベルメール風の)の映像はこの対立をすでに暗示している。
さて、トグサは鑑識の係官とハッカーには介入をおこなったが、バトーの台詞には介入しない。いちおうは先輩だと思って、敬意を払っているからであろう。バトーはエトロフ某所に置かれた巨大なモニュメントの足元にたたずんで、淡々とした調子でハッカーの前歴を語り始める。鑑識の係官の台詞と同様にこれは事実上のモノローグであり、意見の交換が予定されていない。だが、それは以前のような影を生み出そうとしない。モノローグそのものはハッカーが用意した電子的脱線のトリガーに変換されてしまう。抑圧はすでに内向し、本物の影は見えない場所でゴーストを覆っているのである。そしてバトーの閉塞感もまた内向し、問題を解決するためには身体に穴を開けなければならなくなる。
主人公バトーは『イノセンス』のほぼ全篇にわたってそうしていた。まず冒頭、暴走したロボットの身体にショットガンで穴を開き(それはスキャナーの矢印によって強調される)、次に電脳ヤクザの一群を重機関銃で穴だらけにし、自分の身体にも弾を撃ち込んで穴を作り(自分の意志ではなかったとはいえ)、最後は襲いかかる人形の群れに向かってただひたすらに撃ちまくる。そうしていると、その傍らには草薙素子が衛星軌道から降りてきてバトーに救いの手を差し伸べるのである。
草薙素子は義体を捨てて、ゴーストだけになって電脳空間の中に生きている。穴は必要としていない。ゴーストと義体との関係を対立によって捉えるならば、草薙素子はその対立から解放されている存在である。もともとヒロインであるという点を割り引いても、その様子はひどく神々しい。ほとんど無敵のように見えなくもない。
ここに草薙素子という一種の超越的自我が示されることで、内的宇宙は対立関係を克服する。トグサが変数であったように、身体もまた変数として機能し始めるからである。身体が多様性を帯びるとき、そこには必然的にゼロが含まれていくことになる。つまり身体性という点から言えば不在の存在である草薙素子は、まさにその不在によって自動的に「穴」を肯定する。そのとき、身体はもはや抑圧機構としては機能しない。自由が宣言されているのだ。映画の結末において、トグサは娘を抱き、トグサの娘は人形を抱き、バトーは犬を抱き上げる。この連鎖の中に相似性はあっても不気味な均質性は存在しない。ここで背景に出現するのは陰鬱な閉塞感ではなくて、淡々としていて、しかも揺るぎない愛情なのである。察するに、世界は前よりも少し明るくなったのであろう。
『ユリイカ2004年4月号 特集=押井守』より

Tetsuya Sato

2012年5月13日日曜日

ロボット

ロボット
Endhiran
2010年 インド 139分
監督:シャンカール


バシーガラン博士は10年にわたる研究の末に自分とそっくりの姿を持つ百人力のロボット、チッティの開発に成功するが、バシーガラン博士の師匠筋であるボラ教授はバシーガラン博士の成功をねたみ、インド政府を代表してチッティの認可を拒んでチッティに善悪の判断ができない、というよりもそもそも軍用に開発されているのでアシモフのロボット三原則を無視していて、だから見境なしにひとを殺す可能性があることを指摘するので、バシーガラン博士は人間の感情に関するあれやこれやをチッティに教え、そのチッティに雷が落ちると何があったのか、チッティに感情が芽生え、チッティはバシーガラン博士の婚約者サナに感情を抱いて博士からサナを奪おうと試み、さらにはインド軍による審査では兵士としての素質を披露するかわりにサナを賛美する詩を歌ったりしたことから、バシーガラン博士は怒りを抱いてチッティを解体し、ゴミとして捨てられたチッティをボラ教授が回収し、バシーガラン博士を破滅させるためにチッティを殺人ロボットに改造すると、一切の抑制を失ったチッティはバシーガラン博士とサナの結婚式の会場に乗り込んでサナを奪い、警備員を射殺し、大量の警官を殺害し、ロボットの軍団を作り上げて出動してきた軍隊と戦う。
主演は「スーパースター」ラジニカーント。オープニングで「スーパースター」ラジニカーントとクレジットが現われたときにはなぜだかわからないが感動した。1949年生まれなので撮影当時61歳ということになるが、あいかわらず精悍で年齢はまったく感じさせない。映画そのものについて言えば、構成がやや説明的で、場面のつなぎにもいささか雑な部分があり、決してよく出来ているとは思えないが、後半に入ってチッティが凶悪化すると、合体したり変形したりと破天荒な映像の連続になり、このパワーにはただただ圧倒されるだけである(すでに何度もyoutubeで見ていたとしても)。インド映画としては破格の大作ということらしいが、シネスコサイズではないので、画面が微妙に量感を欠いているのが惜しまれる。オリジナルは日本公開版よりも15分ほど長い155分で、推測の域を出ないものの、ダンスシーンが一つ省略されているような気がする。 


Tetsuya Sato

2012年5月12日土曜日

キング・コング(2005)

キング・コング
King Kong
2005年 ニュージーランド・アメリカ 186分
監督:ピーター・ジャクスン


1933年版を素材に慎重に味付けし、ダイナミックな映像をふんだんに仕込んで破格の冒険映画に仕立て上げている。アン・ダロウはただの食えない女優ではなく食えないボードビル芸人に変更され、その設定はコングとの関係構築で巧みに生かされ、ジャック・ドリスコルは映画の脚本家という立場に変更され、エイドリアン・ブロディがいつになく活発な演技を披露して興味深い。ジャック・ブラックのカール・デナムは手段を選ばぬ山師となり、そのカール・デナムが急いでいた理由、ベンチャー号の不自然なまでに多い乗員の数、さらに武器の潤沢さも設定が補強され、うまく説明されている。ナオミ・ワッツ扮するアン・ダロウはきわめて魅力的であり、対するコングのハードボイルドな親父ぶりも必見であろう。アン・ダロウとキング・コングのデート場面は涙なしには見ることができない。3時間を越える長尺だが、だれ場は一秒たりともなく、ベンチャー号がスカル島に接近する場面だけでもとてつもなくわくわくさせられた。壁を越えてからのバトルロワイヤルぶりも相当なもので、もちろん丸木橋も場面もきちんと強化した上で再現されており、オリジナルではやや不自然に見えた草食恐竜とのからみ方(すごい!)、ティラノサウルスとの大激闘(これもすごい!)も現代的な視覚表現を加えて大胆不敵に改変され、しかもウィリス・H・オブライエンによるかつてのアニメーションも豊富に引用されていて、その凝った映像ぶりにはただもうひたすらに息を呑む。エンパイアステート・ビルに登ったコングを攻撃する飛行機にはリック・ベイカーが搭乗していた模様。単なる不始末でしかなかった1976年版の不満はこれで完全に払拭された。文句なしの傑作である。






Tetsuya Sato

2012年5月11日金曜日

キング・コング(1977)

キングコング
King Kong
1976年 アメリカ 134分
監督:ジョン・ギラーミン


ディノ・デ・ラウレンティスによる『キング・コング』のリメイク。スカル島におもむく一行は映画撮影クルーではなく石油探査ということに変えられており、フルスケールで作られた巨大な壁を越えると着ぐるみのキング・コングが登場し、巨大なヘビとちょっとだけ戦い、ニューヨークでは国際貿易センターの屋上でヘリコプターと戦う。捕獲したコングをタンカーで運ぶというアイデアを除けば目を惹くようなところはどこにもなく、素材に対して格別の関心も愛情もないままにただリメイクされたという不幸なしろものである。当時、レイ・ハリーハウゼンのストップモーションアニメで、1930年代を舞台にリメイクするという噂もあっただけに、それを押しのけて作られたこの映画の仕上がりにはひどく失望させられた。
ちなみにこの続編『キングコング2』(1986)はWTCから落下したコングが実はまだ生きていて、輸血が必要なのでレディ・コングを探し出す、という話で、やはり寒い仕上がりではあるが、悪役ネビット中佐のキャラクターがそれなりにはじけていて、コング対機械化歩兵部隊というクライマックスもそれなりに見ごたえがある。






Tetsuya Sato

2012年5月10日木曜日

キング・コング(1933)

キング・コング
King Kong
1933年 アメリカ 100分
監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュドサック


ジャングル映画または猛獣映画の監督カール・デナムはノルウェイ人から東インド諸島の怪しい海図を手に入れて、それをもとに謎の島を訪問して恐るべき怪物の姿をフィルムに収めようと企んでいる。そのために船も船員も武器も用意して、怪物が出現したら悲鳴をあげさせるために金髪の女性も確保する。つまり女優の卵のアン・ダローが下町の八百屋で万引きをして捕まったところをスカウトし、ニューヨークを出発して数週間、問題の島に到着すると原住民はすでに儀式を開始していた。コングに花嫁を捧げようとしていたのだが、デナムとその一行に儀式を穢されたと考えた呪術師は代わりの花嫁としてアン・ダローを要求する。もちろんデナムとその一行は文明人なので、「土人の女6人」という相手の申し出には見向きもしない。そこで原住民は夜間に実力を行使してアン・ダローを誘拐し、コングに捧げる。コングはアン・ダローを抱えて森の奥へ遁走し、ジャック・ドリスコル以下船員たちは武器を手に手にジャングルを中へと分け入っていく。ジャングルはもちろん恐竜天国で、アン・ダロー一人のために1ダースもの船員が命を落とし、アン・ダローはジャック・ドリスコルの手で救われる。コングは逃げ出した二人を追ってまた現われるが、カール・デナムの投げたガス弾の餌食となって昏倒し、ニューヨークに連れ去られて見せ物にされる。そしてなんとか鎖を切って逃げ出すものの、アン・ダローを抱えてエンパイア・ステート・ビルにのぼったところで飛行機の機銃掃射を浴びて蜂の巣にされる。だが野獣を殺したのは飛行機ではない。美女が野獣を殺したのである。
映画本来の機能にまったく疑問を抱いていないという点で、歴史に残る傑作である。






Tetsuya Sato