2012年4月30日月曜日

ぜんぶ、フィデルのせい

ぜんぶ、フィデルのせい
La Faute a Fidel!
2006年 イタリア/フランス 99分
監督・脚本:ジュリー・ガヴラス

1970年、スペイン貴族出身で弁護士のフェルナンド・デラメサはフランコ政権下のスペインで反政府活動をおこなっていた姉マルガを家に向かえ、そのはずみで自分にできることを考え始め、考えた結果、マリー・クレール誌で編集者をしている妻とともにアジェンデ政権下のチリを訪れ、案の定、というか、革命家になって帰国する。そしてキューバ人亡命者で反共主義者の家政婦を解雇し、庭付きの家から狭いアパルトマンに引っ越してギリシャ人活動家(投獄中)の妻を家政婦に雇い入れ、パリを拠点にアジェンデ政権の支援に取り掛かり、一方、妻は妻で未婚の母の問題を取り上げるので、とにかく家には見知らぬひとがいつも出入りしているような状態になり、だから小学生でお姫様の話が好きなアンナはとにかく面白くない。引っ越したせいで自分の部屋もなくなってしまって、弟と二段ベッドで寝なければならないし、学校では宗教の時間に一人で自習室にいなければならないし、ふくれっつらをしているせいで家を訪れるひげ面の革命家たちから反動呼ばわりされるからである。原作があるようだが、監督本人の実体験が折り込まれているような気配もあり(父親がコスタ・ガヴラス)、なかなかに興味深い。非常にていねいに作られた映画で、愛情のこもったまなざしが多くの場面を引き立てている。そして主人公アンナに扮したニナ・ケルヴェルの強烈な存在感が忘れがたい(弟役のバンジャマン・フイエもよかったが)。




Tetsuya Sato

2012年4月29日日曜日

ラバー

ラバー
Rubber
2010年 フランス/アンゴラ 82分
監督:カンタン・デュピュー


双眼鏡を山ほども抱えたメガネの男が荒れ野に立っていると、そこへ一台の車が現われ、車のトランクから保安官が現われ、保安官はさまざまな映画を例にあげて人生は理由のないことの連続だと講釈を始め、この映画は理由のないことへのオマージュであると説明して去り、メガネの男が観客たちに双眼鏡を配ると観客たちは双眼鏡で荒れ野に目を凝らし、その荒れ野では一本の古タイヤが立ち上がってふらふらと進み、ペットボトルをつぶし、サソリをつぶし、なにやら念力のようなものを使って瓶を破壊し、人間の頭も粉砕し、女の子の車のあとを追ってモーテルに入るとエアロビ番組を鑑賞し、ハウスメーキングに現われたメイドの頭を粉砕し、捜査のために現われた保安官は観客たちはすでに毒殺されているのでここで起こっていることを現実と考える必要はないと部下に話し、ところが毒殺されずに残った観客が一人いるということで演技を続けることになり、台詞カードを読んでタイヤが犯人であると決め、数々の頭を粉砕したあと民家でテレビを鑑賞していたタイヤはショットガンで破壊され、それから三輪車の姿でよみがえる。
なにやらひねりのようなものは見えるものの、そもそも文体的な弱さを抱えている上に、映画のなかで進行中の映像と観客を直結したときにビハインドシーンを取り除いたことで、おそらく構造的な弱さを抱えている。画面と観客との関係はもっと複雑なはずだし、もっと冷笑的であっていい。孤独に殺人を繰り返す「タイヤ」はいちおうの他者性を帯びているが、見ていた限りでは思いつきの域を越えていない。



ラバー [DVD]
Tetsuya Sato

2012年4月28日土曜日

インモータルズ 神々の戦い

インモータルズ 神々の戦い
Immortals
2011年 アメリカ 111分
監督:ターセム・シン・ダンドワール


紀元前1228年、いわゆるヒュペリオンとはまったく関係のない、察するに蛮族の王であるところのハイペリオンが強大な軍勢を率いてギリシアに現われ、タルタロス山の地下深くに閉じ込められたティタン族を解放するためにエピロスの弓を探すが、その所在を知るはずの巫女パイドラの所在がわからず、たまたま襲った村では武芸に抜きん出た農夫テセウスの怒りを買い、そのテセウスはハイペリオンによって塩鉱に送られ、ハイペリオンに捕えられたパイドラは奴隷労働に疲れたテセウスと出会って未来を知り、テセウスとともにハイペリオンの手から逃れ、テセウスはハイペリオンが送った追手を倒すとエピロスの弓を見つけてタルタロス山にこもるギリシア勢の陣屋へ急ぎ、そこへハイペリオンの軍勢が襲いかかり、テセウスからエピロスの弓を奪ったハイペリオンはティタン族を解放し、地上ではギリシア勢はハイペリオンの軍勢とぶつかり、地下では神々がティタン族を戦う。
テセウスを導くゼウスの仮の姿がジョン・ハート、ヘンリー・カヴィルのテセウスは見栄えがよく、ミッキー・ロークは蛮族ぶりがよく似合っている。紀元前1228年というこまかい割には意味不明の年代設定と神殿のシャンデリアに並ぶ無数のロウソクには首をひねった(なかったわけではないだろうけど)。監督は『ザ・セル』、『落下の王国』のターセム・シンなので、独特のイメージが優先し、画面もまたそのようにデザインされていて、そのデザインがときどき目を引き寄せるものの、仕上がりは例によって、きわめて洗練されたCMに近い。石岡瑛子の衣装デザインも同様に洗練されているが、よく見ると甲冑が革だったり、という具合で、リアリティには基本的に背を向けている。というわけで神々が妙にストイックに描かれていることも含めて神話時代のギリシアにはあまり見えないが(登場人物の名前もいいかげん)、これまでに見たターセム・シンの作品にくらべると構造的にいちおうの強度があり、戦闘シーンの殺陣などはしっかりとしていて、それなりの見ごたえはある。 





Tetsuya Sato

2012年4月27日金曜日

パラダイス・ナウ

パラダイス・ナウ
Paradise Now
2005年 パレスチナ・フランス・ドイツ・オランダ・イスラエル 90分
監督:ハニ・アブ・アサド

ヨルダン川西岸のナブルスで生きる二人の若者が自爆攻撃に志願してからだに爆弾を装着し、テルアビブへ出発しようとした矢先に手違いが起こり、仕切り直しをしてまた出発し、テルアビブに到着するまで。
実際にナブルスでロケをしている。
きわめてシンプルなプロットに自爆攻撃の当事者が抱く心のひだを書き込み、送り出す側の微妙な鈍感さも描き込み、さらに日常を丹念に描写することで鬱屈した状況にリアリティを与えることに成功している。出演者も魅力的で、特に主人公サイードの母を演じたヒアム・アッバスの手慣れた主婦ぶりがなかなかにすごかった。




Tetsuya Sato

2012年4月26日木曜日

ラストキング・オブ・スコットランド

ラストキング・オブ・スコットランド
The Last King of Scotland
2006年  イギリス 125分
監督:ケヴィン・マクドナルド


若いスコットランド人ニコラス・ギャリガンは医師の資格を得るとウガンダを訪れて僻地医療に従事するが、このときウガンダではクーデターが起こってアミンが大統領の地位につき、そのアミンの怪我をたまたま治したことから主治医に嘱望されて首都カンパラに移動、アミンからは妙に信頼されて事実上の顧問として扱われ、悪い気は決してしないものの、なにしろ相手はアミンなので間もなく恐ろしいことになってくるが、なにしろ70年代風のもの知らず若者なので、結果として恐ろしいことにも加担することになり、そのせいで悪い評判が立つことになるが、どうすることもできない、という話も70年代風だという気もしないでもない。主人公の行動の根底にある無軌道さがなんとなく『冒険者』あたりを思い出させるのである。
ジャイルズ・フォーデンの原作はだいぶ前に読んでいるが、こちらのほうはどうもうまく思い出せないでいる。フォレスト・ウィッテカーはアミンを熱演し、この異様な政治的カリスマに存在感を与えている。対するジェームズ・マカヴォイもいかにもいそうな人間を演じてそれらしい。時間の経過のあいまいさ(71年のクーデターから76年のエンテベ襲撃事件の直前まで、ほぼ6年に及ぶ)が少々気になったものの、まじめに手間を惜しまずに作られた映画で好感を持った。ウガンダ・ロケも印象的。 





Tetsuya Sato

2012年4月25日水曜日

シングルマン

シングルマン
A Single Man
2009年 アメリカ 101分
監督:トム・フォード


大学教授のジョージ・ファルコナーは不快な目覚めを迎えると着替えを済ませて「ジョージ」に変身するが、16年間生活を共にしたジムの突然の死から立ち直れない状態にあり、他者との関係の実現に重きを置くファルコナーは他者と隔絶したまま死を決意し、大学での講義を終えると銀行を訪れて貸金庫から保険証書を回収し、ピストルの銃弾を買い求め、帰宅して遺書をしたため、死体となった自分が着るべき服を用意し、ネクタイの締め方を指定し、それから寝台に横たわってピストルの銃口をくわえるものの、どうにも要領を得ないまま不器用にときを費やすことになり、そこで電話が鳴るので請われるままに旧友の家を訪れて酒を飲み、言葉を交わし、ふたたび帰宅して酒がないことに気づいてバーに出かけ、そこで自分の講義を聴講している学生と出会い、酒を飲み、言葉を交わし、海岸に出かけて裸で泳ぎ、学生をともなって帰宅して暖炉に火をともし、ビールを飲み、言葉を交わし、そのまま眠りに落ちて目覚めると意識が覚醒していることを発見する。
自殺を決めた大学教授が一日を過ごしながら言葉を交わし、回想し、ときには煩悩にしたがって目を動かし、ときには肯定的に他者と交わることを選ぶのである。一日の決意とその場その場における衝動は必ずしも一貫していない。演出は終始淡々としているが、つなぎ方が非常にうまく、絵が魅力に富んでいる。コリン・ファースの演技もまた表情に富み、見ている者を飽きさせない。非常な忍耐をもって丹念に作られた作品である。 






Tetsuya Sato

2012年4月24日火曜日

シッピング・ニュース

シッピング・ニュース
The Shipping News
2001年 アメリカ 111分
監督:ラッセ・ハルストレム


生きることに不器用で、そのせいで傷ついて壊れてしまった男が叔母に連れられてニューヨーク郊外の町を離れ、一族の故郷を訪れる。そこは5月でも雪がしっかり積もっていて夏は来たと思ったら終わってしまう、冬が来れば町との交通は自然に絶たれ、住人がアザラシのパイを食べているニューファンドランドなのであった。ほんとにもう、海がなければほとんどサウスパークのような田舎くさい場所で、住民は愚かで、呪われていて、それでも黙々と生きていて、過去は忘れて未来のためにと言いながら、愚行の拡大再生産は続いているので明日は昨日と変わることがない。それでも呪いが解けることはあるし、眺望が開けることもあるので、ひとはやがて癒される、という救いのあるのかないのかわからないような話で、それをオールスター・キャストで実に丁寧に映像化している。
ケヴィン・スペイシーの壊れた男は予想どおりだが、ジュリアン・ムーアの曰くつきの寡婦というのが予想外によかったし、ケイト・ブランシェットの死んだ女房というのも悪女全開でよろしかった。スコット・グレンの漁師兼新聞社主はいかにもという感じの役作りだし、上司のつまらない悪役にはあの独特な風貌のピート・ポスルスウェイトが配置されていて、これもいい味を出していた。少しコミカルで淡々とした人間ドラマだが、テンポがいい。吹雪の中を移動していく家、海賊の襲撃、人死にが出ればけっこうスプラッターと、見せ場の多い映画でもある。 






Tetsuya Sato

2012年4月23日月曜日

バーフライ

バーフライ
Barfly
1987年 アメリカ 101分
監督:バーベット・シュローダー


チャールズ・ブコウスキーの脚本にもとづく。飲んだくれているだけで仕事をしない詩人がバーの一角になんとなく、つまり蝿のように住み着いていて、ほかの客のサンドイッチを「燃料、燃料」などと言いながらくすねていると、女性編集者が現われて仕事をしなさいと追い立てる。
詩人ヘンリー・シナスキに扮したミッキー・ロークがいい感じ。そのミッキー・ロークが出会う年増女ワンダがフェイ・ダナウェイで、これがまたひどく落ちぶれているのだけど、それでも脚線美が自慢、というところがなんだかよろしい。ミッキー・ロークとフェイ・ダナウェイの掛け合いがまた楽しくて、二人が酔っぱらって夜中の道を歩いているうちに、フェイ・ダナウェイのほうが道端の個人菜園か何かに並んでいるトウモロコシを見つけて食べたいとか言って引き抜きにかかり、ミッキー・ロークのほうがそのトウモロコシはまだ青いと指摘すると、フェイ・ダナウェイが人生の理不尽を嘆く、という場面は最高であった。最後はフェイ・ダナウェイと編集者アリス・クリーグの一騎打ち。






Tetsuya Sato

2012年4月22日日曜日

裏切りのサーカス

裏切りのサーカス
Tinker Tailor Soldier Spy
2011年 フランス/イギリス/ドイツ 128分
監督:トーマス・アルフレッドソン


英国の諜報機関サーカスの指揮者コントロールはサーカスの内部にひそむ二重スパイ「もぐら」をあぶり出すためにジム・プリドーをハンガリーに送るが、KGBの勇み足でジム・プリドーは生死不明となり、コントロールは責任を取ってサーカスを去り、コントロールの右腕であったスマイリーもまたサーカスから離れるが、政府筋からの極秘指令によってスマイリーは「もぐら」の正体を調べることになり、サーカスの周辺から証言を集め、サーカスの内部から資料を集め、アメリカの諜報機関との提携を急ぐサーカスがソ連をはめているつもりでソ連にはめられていることをつきとめ、「もぐら」の正体を暴き出す。
原作は未読(というか、白状するとル・カレは読んだことがない)。一見したところ際立ったところが何もない映画だが、緊密な構成とにおい立つばかりに再現された70年代初頭の世界、状況がもたらす緊張感、俳優陣の忍耐強い演技によって際立った映画になっている。スマイリー役のゲイリー・オールドマンがとにかく渋い。コリン・ファースは不安定な役どころを見事にこなし、マーク・ストロングは非情な世界を手際よく圧縮し、ベネディクト・カンバーバッチは髪を染めて70年代になりきっている。そしてジョン・ハートが実にすばらしい。これは俳優の演技を確認するためだけでも何度も見たい作品であり、俳優の演技を確実に拾い上げている演出の確かさは賞賛に値する。 


Tetsuya Sato

2012年4月21日土曜日

ドライヴ

ドライヴ
Drive
2011年 アメリカ 100分
監督:ニコラス・ウィンディング・レフン


言わばどこの馬の骨とも知れないけれど自動車に関する技能と孤独さでは誰にもひけを取らないという妙に控えめな青年が昼間は修理工場で働き、映画の撮影現場でもカースタントをして働き、夜は逃走専門のドライバーもする、ということをしていると、アパートの同じフロアで暮らすアイリーンとその息子ベニシオに気がつき、手助けのようなことをしているうちに親密さを増して珍しく笑みなどを浮かべていると刑務所にいたアイリーンの夫スタンダード・ガブリエルが出所して戻り、スタンダードは再出発を誓うものの服役中にこしらえた借金のために質屋への押し込みを強要され、放置しておけばアイリーン母子にも危害が及ぶと案じた主人公はスタンダードに手を差し伸べ、スタンダードとともに押し込みの現場へおもむいたところ、スタンダードは店主に射殺された上に奪った額は見込みをはるかにうわまわる、ということで、やばい状況に巻き込まれたと悟る間もなく隠れ家には武装した男たちが出現し、主人公は状況を収拾するために一件の黒幕に金を渡してけりをつけようと試みるが、黒幕のほうでは一件にけりをつけるために主人公の抹殺をたくらみ、それに対して主人公はいたって実際的に暴力に訴えるので、その様子を見たアイリーンは思わず退き、孤独を感じた主人公は夜の町に出て一件の黒幕と対決する。
ストイックな主人公、逃走専門のドライバーというあたりからウォルター・ヒルの『ザ・ドライバー』を思い出すが、『ザ・ドライバー』が非人間的なほど図式的(滑稽とも言う)であったのに対して、こちらの主人公はあきらかに内面を備え、そしていったい何があったのか、ひたすらに孤独であり、孤独さと心中するためにヒロイズムに殉じていく。
主人公のライアン・ゴズリング、アイリーン役のキャリー・マリガンはいずれもきわめて印象的な演技を残している。これに対して親分衆を演じたロン・パールマン、アルバート・ブルックスは造形がやや単純すぎる。映像における文体は明瞭でスタイルがあり、照明が造形的に使われ、観客の心理を刺激するカメラワークは昔のポランスキーを思い出させた。特に造形性においてひとかど以上の作品であることは疑いないが、内容はナルシズムに関するこちらの許容限度を超えている。終盤における構成の若干の乱れも気になった。それにしてもいまどき、いかに東部のファミリーがからんでいるとはいえ、百万ドルのはした金で十人近くが命を落とすというのはいささか腑に落ちないところではある。


Tetsuya Sato

2012年4月20日金曜日

闇の列車、光の旅

闇の列車、光の旅
Sin nombre
2009年 メキシコ/アメリカ 96分
監督・脚本:ケイリー・ジョージ・フクナガ


ホンジュラスに住むサイラは父と叔父とともに北を目指し、徒歩でグアテマラに入って川を渡ってメキシコへ進み、多くの移民とともに駅で待機の時間を過ごし、やがて貨物列車が現われると先を争って屋根にあがり、雨が降ればシートをかぶり、そうしてさらに北を目指して進んでいくとメキシコ人のギャング三人があらわれてうずくまる移民から金品を奪い、サルマ・ハエック似のサイラはあやうく暴行を受けそうになるが、暴行を試みたギャングを別のギャングが切り殺し、仲間を裏切ったこのギャングはウィリーと名乗って列車に残り、サイラはウィリーに関心を抱き、一方ギャングは知らせを受けてウィリーを殺すための刺客を放ち、あるいは列車の進行方向で待ち伏せをしかけ、サイラは列車から逃れたウィリーを追い、ウィリーはサイラを家族と再会させるために北を目指し、やがて二人はメキシコ・アメリカ国境に到着する。
北上する不法移民の群れにしても、ギャングの異様な生態にしても、丹念な描写に恐れ入った。こちらの現実感から離れたところで展開する徹底したリアリズムは恐るべき日常性をまとい、ほとんどファンタスティックですらある。説明とダイアログは抑制され、その一方で絵がきわめて雄弁で美しい。明確な方向性によって完成された作品である。 






Tetsuya Sato

2012年4月19日木曜日

ミノタウロス

ミノタウロス
Minotaur
2006年  イギリス・ドイツ・ルクセンブルグ・フランス・スペイン 92分
監督:ジョナサン・イングリッシュ


太古、ミノス王国では王妃と牛の交合から生まれたミノタウロスを守護神としてあがめ、ミノタウロスに食べさせるためにテナの村から毎年八人ずつ生贄を求めていたが、前年の生贄として連れ出された恋人を救い出すために村長の息子テオが生贄に混じってミノス王国を訪れ、ミノス王国の王女の助けを得てミノタウロスと戦う、というなにかと似ていなくもないようなストーリーで、クレジットを見ると原作はテーセウスとミノタウロスの話、ということになっているが、そのゲルマン的な再話と考えたほうがまだ抵抗がない。全体にかなりの安普請で、生贄を差し出している村、というのがどこか北方の(たぶん北ドイツの)寒村だし、地下迷宮というのはわびしいハリボテの洞窟で、ダイダロスが関与したような気配はどこにもない。その迷宮にいるミノタウロスはミノタウロスというよりもただの雄牛である。ちなみにこの洞窟にはなぜか爆発性のガスが流れていて、最後はミノタウロスもその真上の王宮も爆発する。内容について言えば、夏休み中にうっかり洞窟に入り込んで出口を見失ったハイカーが怪物に襲われるといういつものパターンで、例によって上映時間を埋めるためにいさかいをしている、という感じに限りなく近い。 




ちなみにこの映画の監督ジョナサン・イングリッシュの新作『Iron Clad』は13世紀イギリスを舞台にした血まみれチャンバラ映画で、ジョン王の役でポール・ジアマッティが出演している。期待していいものかどうか。






Tetsuya Sato

2012年4月18日水曜日

ドグマ

ドグマ
Dogma
1999年 アメリカ 129分
監督:ケヴィン・スミス


天使ロキは天使バートルビーに唆されて神の手になることを拒絶し、神の怒りにあってバートルビーともども地獄よりもなお悪いウェスコンシンに流される。それからどうやら1000年、ニュージャージーのカトリック教会が門をくぐればすべての罪は許されるというキャンペーンを予告し、ロキとバートルビーはその門をくぐって許しを得て、天国への帰還を果たそうと考える。だが、それをすれば世界は無に戻ることになる。掟はたしかに地上にあったが、二人の帰還は神の無誤謬を揺るがすことになるからである。というわけでメタトロンは二人の目論見を阻もうと火の柱となって地上に現われ、消化器の中身をぶっかけられて怒り狂う。神の行方は知れなくなり、地獄から現われたアズラエルの陰謀が進行し、天からはキリスト13番目の使徒が降ってきて、キリストは黒人であったと指摘する。
得体の知れない教義ギャグが満載で、「神の道具」には大受けした。それはそれで面白いのだがスピード感がない。途中で息切れしてきて、息を継ごうと登場人物を増やしたりするのだが、それがどうもうまく処理できていない。アイデアは抜群にいいし、けっこうキャラクターも立っているので、ただただ体力不足が惜しまれる映画である。ちなみにロキがマット・デイモン、バートルビーがベン・アフレック、メタトロンがアラン・リックマン。






Tetsuya Sato

2012年4月17日火曜日

アポカリプス 黙示録

アポカリプス 黙示録
San Giovanni - L'apocalisse
2002年  イタリア・フランス・ドイツ・イギリス 93分 TV
監督:ラファエル・メルテス

ドミティアヌス帝によってエペソのキリスト教徒が弾圧を受けていた頃、パトモス島に流されていた聖ヨハネは啓示を受け、書簡に黙示録をしたためる。最晩年のリチャード・ハリス扮するヨハネが牢屋のなかで天の国を幻視していると、迫害されたキリスト教徒が精神的な支柱を求めて寄ってくる、というのが主軸で、そこにローマ側の若干の事情などがかぶさっていた様子だが、180分あったオリジナルが半分に刻まれているのでよくわからない。とにかく刻まれているので映画としての評価は難しいものの、宗教劇としてはまじめな作りで、黙示録のイメージなども控えめながらそれらしいものになっている。 


Tetsuya Sato

2012年4月16日月曜日

新約聖書 ヨハネの福音書

新約聖書 ヨハネの福音書
The Visual Bible: The Gospel of John
2003年 カナダ/イギリス 180分
監督:フィリップ・サヴィル

『ヨハネの福音書』のおおむね正確な映画化。つまり『パッション』あたりに比べると捕えられてから処刑されるまでの部分が大幅に刈り込まれているように見えるが、そのあたりも含めて福音書のままである。クリストファー・プラマーのナレーションが補足的にコメントを加え、愛想のよい笑顔を浮かべたイエスがはっきりとした形で情動を示す。おおむねスペインでロケされたと思われる古代のユダヤはそれなりの雰囲気を備え、衣装、美術にがんばりが見えた。3時間の長尺ではあるが、製作態度には慎重さと敬虔さが見え、好ましい仕上がりとなっている。 



Tetsuya Sato

2012年4月15日日曜日

バトルシップ

バトルシップ
Battleship
2012年 アメリカ 130分
監督:ピーター・バーグ

地球型惑星の探査を目的としたビーコン計画が深宇宙に向かって強力な電波を発信すると、それにこたえて深宇宙から五つの未確認不明物体が現われて地球の大気圏に侵入し、そのうちの一つは衛星に接触して香港に墜落し、残りは太平洋のハワイ近辺に落下して一帯にバリアを張り巡らし、それが折しもリムパックの最中で異変を調査するためにアメリカ海軍の駆逐艦『サンプソン』『JPJ』と海上自衛隊の『みょうこう』が派遣され、問題の海域に接近した三隻の前に巨大な戦闘メカ三機が出現、『サンプソン』と『みょうこう』が撃沈され、バリアーの内部で外部との連絡が遮断された『JPJ』は『みょうこう』の艦長の指揮下、レーダーが使えないという理由で潮位計測システムで敵の動きを予測しながらハープーンを発射して戦闘メカ二機を撃破、香港に墜落したのはエイリアンの通信船で、母星との連絡をおこなうためにエイリアンの一団がオアフ島にあるビーコン計画の施設を強奪すると、通信を阻むために『JPJ』はオアフ島に接近するが、そこでエイリアンの攻撃を受けて沈没、生き残った乗員はハワイ諸島で唯一残された海軍兵力、戦艦『ミズーリ』に乗り込み、大戦中の古兵たちの協力を得て『ミズーリ』を動かし、洋上で敵主力と砲撃戦を交わし、オアフ島の通信施設を破壊するが、エイリアンの攻撃を受けて窮地に陥る。
とにかく艦艇と海が美しい。限定された状況の中での艦隊戦というアイデアが実に魅力的に消化されていて、クライマックス、『ミズーリ』が動き出すと、これがまさしく戦艦という迫力で、しかもスチームタービンからアナログ式の砲術コンピューターまできちんと描写するという手の込みようはほとんど感涙ものと言ってもいい。きわめて明瞭な軍事作戦を下敷きにしたきわめて明確な軍事映画であり、その迷いのなさにはただひたすらに感心した。エイリアンの描写もシンプルながらよくできていて、太陽光線に弱いとわかるとエイリアンの戦闘メカの風防をバレットで粉砕して迷惑をかけるのである。『トランスフォーマー』の亜流などではまったくない。『世界侵略:ロサンゼルス決戦』に足りなかったものがすべてここに詰まっている。 



Tetsuya Sato

ジョン・カーター

ジョン・カーター
John Carter
2012年 アメリカ 133分
監督:アンドリュー・スタントン


南北戦争終了後、南軍の将校であったジョン・カーターは金鉱を求めて山に入り、そこで謎の洞窟にもぐり込んで幽体離脱の形で火星へ飛ばされ、サーク族の皇帝タルス・タルカスの友情を得ると、赤色人の王女デジャー・ソリスを助けて火星/バルスームの支配をたくらむ邪悪なタル・ハジュスと戦う。エドガー・ライス・バロウズ『火星のプリンセス』のほぼ忠実な映画化。空気製造工場が出てこない、といった改変はあるものの、原作には十分な敬意が払われている。だからこそ、ということになるのか、作劇も話法もきわめて古典的で、良心的に作られた作品ではあるものの、なぜいまさら、という感は否めない。とはいえ、これがあれやこれやの原型であるのも事実なのである。 





Tetsuya Sato

2012年4月14日土曜日

ディミトリアスと闘士

ディミトリアスと闘士
Demetrius and the Gladiators
1954年 アメリカ 102分
監督:デルマー・デイヴィス

『聖衣』の結末でペテロに託されたイエスのローブは旅に出るペテロの手からディミトリアスに託され、ディミトリアスはそれを陶芸屋に預け、問題のローブに不死の力があると信じたカリギュラは兵士を送ってローブを探させるが、探しに現れた兵士にディミトリアスが殴り掛かり、捕えられたディミトリアスは自分は自由民であると主張するが、証拠立てるものが何もなかったために剣闘士としてクラウディウスの養成所に送られ、信仰にしたがって相手を殺すことを拒絶するとクラウディウスの妻メッサリーナが関心を抱いてディミトリアスを試合に出すように手配を下し、対戦相手となったグライコンはディミトリアスを救うために一種の茶番をしかけるが、カリギュラに見抜かれたためにディミトリアスを殺しにかかり、ディミトリアスはグライコンを倒すがグライコンの命を奪うことを拒否したためにトラと戦うはめになり、トラをことごとく打ち倒すと負傷して養成所に担ぎ込まれ、そこでメッサリーナとグライコンの手当てを受け、傷がいえるとクラウディウスの呼び出しを受けてキリスト教徒に関する質問に答え、メッサリーナはディミトリアスに粉をかけるがディミトリアスが応じないためにメッサリーナはディミトリアスを養成所に戻し、再び試合に出ることになったディミトリアスの前には陶芸屋の娘ルシアが現われた愛を告白し、それを見たメッサリーナはディミトリアスとルシアを引き裂き、剣闘士にもてあそばれたルシアはその場で息絶え、それを見たディミトリアスは信仰を失い、試合に出てルシアをもてあそんだ剣闘士たちをことごとく倒し、それを見た兵士たちはディミトリアスに賞賛を送り、再び自由民となったディミトリアスは護民官となってメッサリーナと親しくすごして旅から戻ったペテロを追い返し、ローブに不死の力があるとまだ信じているカリギュラはローブの捜索をディミトリアスに命じるので、ディミトリアスは陶芸屋を訪れてローブを抱えて横たわるルシアを発見し、ルシアが死んではいなかったことを知って神に祈り、信仰を取り戻してローブをカリギュラに差し出すが、カリギュラが信じたような魔力はローブにはなかったので、怒ったカリギュラはディミトリアスを剣闘士に戻し、戦うことを拒んだディミトリアスが倒れると怒った兵士がカリギュラを殺し、その場でクラウディウスが新たな皇帝となり、クラウディウスは愚者の仮面をかぶっていたことを告白してキリスト教徒を迫害しないと約束する。
ディミトリアスが奴隷になったり剣闘士になったり、自由民になったり奴隷になったりと、まるですごろくのように身分を変える。そして落ち着きがない割には筋運びは単調で、どちらかというと『聖衣』で作ったセットをできるだけ償却するためだけに脚本が組まれているように見える。剣闘士の試合にも迫力はないし、トラはじゃれているようにしか見えないし、配役にも格別の魅力はない。 



Tetsuya Sato

2012年4月13日金曜日

聖衣

聖衣
The Robe
1953年 アメリカ 124分
監督:ヘンリー・コスター

ティベリウスの時代の末期、元老議員の息子マーセラスは奴隷市場でカリギュラと競り合ってギリシア人奴隷ディミトリアスを落札し、そのことでカリギュラの恨みを買ってパレスチナの地へ飛ばされ、エルサレムを訪れると棕櫚の葉を持つ人々がロバに乗った男を迎えるところを目撃し、間もなく男はピラトによって逮捕され、マーセラスはピラトの命令にしたがって男を十字架にかけ、十字架の下でサイコロ賭博に興じて十字架にかけられた男のローブを賭けによって手に入れるが、そのローブを肩にかけると激しい恐怖を味わって夜毎に悪夢にうなされるようになり、皇帝の召還を受けてカプリを訪れると皇帝の前でも醜態をさらし、問題を解決するためにはそのローブを焼却することが最善であると判断するが、ローブはディミトリアスの手にあり、ディミトリアスはマーセラスから逃れてエルサレムの地にあったので、マーセラスは皇帝の勅命を受けてローブを探すことになり、再びパレスチナにおもむいてカナの地を訪れ、そこでディミトリアスとの再会を果たして自分の恐怖の正体を知り、ペテロと出会って信仰を確かめ、ペテロとともにローマに戻って布教にあたり、皇帝となったカリギュラはマーセラスを捕らえて裁判にかける。
マーセラスがリチャード・バートン、マーセラスの恋人がジーン・シモンズ、ディミトリアスがヴィクター・マチュア、ペテロがマイケル・レニー。人物造形は通俗的でわかりやすく(カリギュラとの対比のためか、ティベリウスは立派な皇帝ということになっているが、それではカプリにいる説明がつかないであろう)、状況は全体に単純化され、内容は盛りだくさんでよどみがなく、ところどころに印象的な場面が効果的に挿入されていて、イエスに逮捕の危険を知らせるために走るディミトリアスにイエスがすでに逮捕されたことを知らせる男は名をたずねるとユダであり(しかも名乗ると雷鳴がとどろく)、そのユダが立ち去る画面中央の奥には木が見えているという具合である。舞台となるセットの数は決して多くはないものの、いずれも仕上がりは壮麗で無駄なく使われ、遠景に見えるエルサレムやカプリはマットアートではなくてセットの壁に描かれた背景画が使われているが、これが意外なほど見栄えがよい。 



Tetsuya Sato

2012年4月12日木曜日

四十日

ジム・クレイス『四十日』(渡辺佐智江訳、インスクリプト)

イエス・キリストの荒れ地における四十日の断食を医学的な根拠に基づいて再解釈した小説である。つまり水も食も断った状態では人間は三十日しか生きることができないので、この小説ではイエスは断食の三十一日目に死んでしまう。しかもこのイエスは祈ることに長じてはいても無知で無教養な憶病者で、その死にあたっては心は恐れから悪魔に傾斜し、遺体は拝金主義の商人の手によって葬られ、奇跡も福音もまた同じ商人の空想的な信仰心によって荒れ地の外に値札をつけて持ち出される。「無神論者」ジム・クレイスは信仰に対して一貫して冷笑的な態度を取り、一貫してイエスを貶めるのである。読者の立ち位置にもよるが、わたしの場合は最初に抱いた反発が最後まで続いた。ただ否定して貶めるという態度にはいかなる知性も感じられない。露悪的で醜悪な小説である。作者は人間の精神に対して底知れぬ不信と軽蔑を抱いているのであろう。だから思索が行き着く先にある不可解なアイロニーに気がつかないし、神と向き合うことで人間の頭のなかに生じる壮絶なナンセンスを想像することができずにいる。それともこれはわたしの誤読なのか。



Tetsuya Sato

2012年4月11日水曜日

ジーザス・クライスト・スーパースター

ジーザス・クライスト・スーパースター
Jesus Christ, Superstar
1973年 アメリカ 106分
監督:ノーマン・ジュイソン

イエスの受難を描くロックオペラの映画化。冒頭、砂漠を背景に60年代風のぺかぺかした音が流れ始めると、期待は否応もなく盛り下がり、時間とともに予感はそのまま的中していく。スーパースターという世俗的な枠をはめ込まれたイエスはフラワーピープルな取り巻きを連れてただ物質的な次元を徘徊し、奇妙に役割を強化されたユダがイエスに対立する形でエゴイズムを賛美する。日曜学校への反発だけで作られたような内容で、ノーマン・ジュイソンの演出は60年代的な灰汁のみを感じさせ、ロイド・ウェッバーの音楽は 『オペラ座の怪人』 と同様、というか、それ以上に退屈である(ヘロデ王のレビューはちょっと笑えたが)。それにしてもユダがアフリカ系でマグダラのマリアがアジア系、というのには何か意味があったのか。 


ジーザス・クライスト・スーパースター [VHS]

Tetsuya Sato

2012年4月10日火曜日

パッション

パッション
The Passion Of The Christ
2004年 アメリカ・イタリア 127分
監督:メル・ギブソン

ユダの裏切りからイエスの磔刑、復活までを描くキリスト受難劇の二十一世紀劇場版。ユダヤ教への一応の配慮など新しい要素も見受けられる(異論はあろうが)ものの、基本的には近代以前のデザインが採用されていて、だから十字架の上のイエスは東欧かどこかの教会の十字架象のように見えるし、出血の量もものすごいし、異教徒はやはり異教徒なのである。画面のテンションは高く、映像は真摯で見ごたえがあり、アラム語とラテン語で再現されたダイアログはきわめて興味深い。しかしキリストの受難を古拙に描くというあまりにも明瞭な目的のせいで作家性は認めにくい。 



Tetsuya Sato

2012年4月9日月曜日

JESUS 奇蹟の生涯

JESUS 奇蹟の生涯
Jesus
1999年 ドイツ/イタリア/アメリカ 111分 TV
監督:ロジャー・ヤング

第一次大戦とおぼしき戦場で騎兵がイエスの名を叫んで突撃し、負傷した歩兵がイエスの名を叫ぶ夢から覚めたイエスはヨゼフとともに大工仕事の出稼ぎに出ていたが、ユダヤの民はローマにかけられた重税に苦しみ、ローマ兵に守られた収税吏がイエスの家の戸を破ってヤギを連れ去り、事の次第をマリアから聞いたヨゼフはイエスを見てまだ予兆も現れないと嘆いてみせるが、そのヨゼフは間もなく倒れ、イエスは母に背中を押されてヨルダン川を訪れ、そこで洗礼者ヨハネから洗礼を受けると天から声がとどろいてイエスが神の子であることを認め、荒れ野に出たイエスをスーツを着た悪魔が誘惑し、荒れ野から戻ったイエスは腹を満たして二日のあいだ昏々と眠り、カナでおこなわれた結婚式では激しく踊って喉の渇きを訴えるが、母はワインがないことを伝えていまがそのときであるとイエスに告げ、そこでイエスは水をワインに変え、足萎えを直し、シモンの疑念を晴らすために網を魚でいっぱいにし、ローマ兵を攻撃するゼロテ党の一団と出会って暴力は何も解決しないと主張するが、ゼロテ党を率いるバラバは暴力が解決の手段であると主張して去り、エルサレムを訪れたイエスは神殿の物売りを駆逐し、その有様はピラトの宴会で余興として再演され、カエサルのものはカエサルに、という台詞を聞いて、いいこと言うじゃないか、とピラトが言い、一方、イエスは十二人の使徒を選び、ラザロを復活させてからロバにまたがってエルサレムに入城し、大祭司カヤパはイエスがエルサレムの情勢を悪化させているという政治的判断から逮捕を決意し、最後の晩餐がおこなわれ、イエスはゲッセマネの地で再び悪魔に誘惑され、悪魔は十字軍、魔女狩り、戦争などの未来を見せ、イエスの行為にいかなる意味もないと主張するが、イエスは罪の贖いを信じて悪魔を退け、逮捕されてピラトの前に送られ、ピラトはイエスを調べていかなる罪もないと判断を下してから鞭で打ち、バラバがイエスのかわりに釈放され、イエスは十字架にかけられ、イエスが絶命すると地震が起こってイエスの背後に見える水道が壊れ、イエスは三日後に復活して使徒たちの前に現れて福音を広めるように指示を与え、気楽な服装で現代世界に現れて子供たちに囲まれ、そこへなにやら気の抜けたフォークソングのような歌が流れる。
イエスの名においておこなわれた歴史的な悪の数々をイエスに見せたり、ユダやトマスのキャラクターに踏み込んでみたり、ピラトの脇にリウィウスとおぼしき人物を配置したり、と妙にひねったことをやっているが、当のイエスに関しては奇跡を連発して衆目を集めるという以上の描写がない。湖のほとりに立って石を投げて水切りをするイエスという光景も珍しいが、思いついたからやってみた、という以上のものではないだろう。不信心というわけではないものの、全体に敬虔さが欠けている。マリアが老いてなお美しいジャクリーン・ビセット、ヨゼフがアーミン・ミューラー・スタールという豪華版。しかもピラトはゲイリー・オールドマンだが、これは軽薄なだけで魅力がない。 




Tetsuya Sato

2012年4月8日日曜日

聖母マリア

聖母マリア
Mary, Mother of Jesus
1999年 アメリカ 88分 TV
監督:ケヴィン・コナー

マリアはヨゼフとの結婚を前に御使いから受胎を知らされ、また不妊であるはずのエリザベトがすでに妊娠六ヶ月であると知らされるので、マリアはエリザベトの家を訪れてヨハネの誕生に立ち会い、マリアもまた受胎を自覚して自宅に戻ってヨゼフのもっともな疑念に出会い、そのヨゼフは夜のあいだに御使いの声を聞いて心を改め、マリアとヨゼフはベツレヘムを訪れ、マリアは馬小屋でイエスを産み落とし、そこへ羊飼いが現れて神の子の誕生を祝福し、東方の三博士が現れて贈り物と警告を残し、ヘロデ王はベツレヘムの嬰児虐殺を命令し、エジプトに逃れたヨゼフとマリアは十二年後、少年となったイエスをつれてガリラヤへ戻り、それから十八年後、イエスは母の勧めにしたがってヨハネの洗礼を受けて使命を悟り、荒れ野へ出て四十日後に戻ると弟子をつれて布教を始め、カペルナウムで奇跡をおこない、エルサレムでは歓迎を受け、息子とともにエルサレムを訪れたマリアの前にはマグダラのマリアが現れてイエスが逮捕されたことを知らせ、マリアの前でイエスはゴルゴダの丘への道を進み、磔刑にされて息絶えると三日後によみがえり、マリアはイエスの姿を認め、すべきことは始まったばかりであると使徒たちに語る。
聖母マリアが主役なので、カナの婚礼はあっても山上の垂訓はない。最後の晩餐もその場にはいなかったので、逮捕をあとから知らされるだけである。主要な関心はイエスの母としてのマリアという人物の造形にあり、信仰において義しく、与えられた試練に対して自覚的に行動し、息子に対して明確な影響を与えていく。90分足らずという短い尺ではあるが、ケヴィン・コナーはベテラン監督らしい要領のよさで場面をまとめ、好ましい聖書物語に仕上げている。ちなみにイエスはクリスチャン・ベイル。




Tetsuya Sato

2012年4月7日土曜日

偉大な生涯の物語

偉大な生涯の物語
The Greatest Story Ever Told
1965年 アメリカ 199分
監督:ジョージ・スティーブンス

イエスの誕生から処刑、復活までを描く。マックス・フォン・シドーが演じる微妙に年齢不詳なイエスはカリスマを備えて造形的によくこなれており、さすがによい役者であると感心させられる。洗礼者ヨハネのチャールトン・ヘストンも威厳があって悪くないし、テリー・サバラスのピラト、クロード・レインズのヘロデ王もいい味を出していた。映画は歴史的なスペクタクルよりもイエスによる奇跡の再現に時間をかけ、カペルナウムにおける最初の説教、ラザロの復活の場面は見ごたえがある。セットは全体に演劇的に構築されていて、演出の主要な意図はそれを背景に一種の活人画を生み出すことにあるように見え、それはそれなりに成功しているものの、活人画から一歩離れて周囲の人間が動き出すとひどく安っぽくなるのは感心しないし、受難以降のハレルヤ・コーラスの流しっぱなしもよろしくない。特にクライマックスの処刑の場面からは演出が安いところへ流れていって、イエスが十字架をかついで進んでいくと、それを助けるために現われるのがいきなりシドニー・ポワチエだったり、イエスが十字架にかけられると「まことにこの方が神の子であった」とつぶやく百人隊長がいきなりジョン・ウェインだったり、という唐突さは感動よりも笑いを呼ぶ。昇天の場面に至っては土産物屋の絵葉書のような安っぽさで、作り手の想像力を疑いたくなる。 



Tetsuya Sato

2012年4月6日金曜日

キング・オブ・キングス

キング・オブ・キングス
King Of Kings
1961年 アメリカ 178分
監督:ニコラス・レイ

イエスの誕生から処刑、復活までを描く。ジェフリー・ハンターのイエスは若々しくてたくましく、眼光が鋭い、という感じであろうか。演技の軽さがたまに見えるが、それなりに雰囲気が出ていて悪くない。山上の垂訓の場面、ピラトの裁判の場面はなかなかに見ごたえがある。バラバはゼロテ党の指導者として登場し、イスカリオテのユダはバラバの仲間として現われて実用的な理由から(追い詰められれば彼も奇跡を起こして城壁を砕くであろう)イエスを裏切る。ただし全体を通じて言えばニコラス・レイの演出は個性が乏しく、強さがない。そしてこれは監督の責任ではないが、やはりメル・ギブスンの『パッション』を見たあとでは処刑の場面は迫力を欠く。それにああやって上腕をロープで支えてしまったら、胸腔に圧力が加わらないのでいつまで経っても死なないと思う。 


Tetsuya Sato

2012年4月5日木曜日

プリンス・オブ・エジプト

プリンス・オブ・エジプト
The Prince of Egypt
1998年 アメリカ 99分
監督:ブレンダ・チャップマン、スティーヴ・ヒックナー、サイモン・ウェルズ

ヘブライの民がエジプトで追い使われていたころ、ファラオによる嬰児虐殺から逃れるためにナイル川に流された子供はエジプト王妃に拾われてモーゼという名を与えられ、エジプトの王子として育つと兄のラメシスとともにさまざまな悪事におこなうが、ふとしたことからミリアムと出会って自分の出生の秘密を知り、ヘブライの民に対して憐憫の情を起こすとそのまま王宮から逃れて砂漠を進み、やがてミディアンの民と出会って羊飼いになると族長の娘ツィポラと結婚し、ある日ふとしたことから洞窟の奥へ進んで、そこで燃える柴の前に立ち、神の声を聞いて天啓を受け、ツィポラとともにエジプトへ戻ると王宮へ入って王となったラメシスとの再会を果たし、歓迎するラメシスにヘブライの民を解放するように要求し、ラメシスがそれを断るとエジプトをさまざまな災厄が襲い、ついにすべての初子が命を落とすとラメシスはヘブライの民を解放し、ヘブライの民はモーゼに率いられて紅海の沿岸に進み、そこで背後に迫るファラオの軍勢を見て恐れていると、空に暗雲が走り、天から下った火の柱が軍勢を押しとめ、紅海が割けて海底に道が現われるので、ヘブライの民はこの道を進んで対岸にわたり、ヘブライの民を追うファラオの軍勢は海に飲まれ、対岸に渡ったヘブライの民はモーゼから十戒を受ける。
驚くほど豪華な声優陣によるミュージカル・アニメである。モーゼのエジプト王子時代についての自由な脚色はセシル・B・デミルの『十戒』に比べるといささかという以上に奔放に見える。心理的な変化も99分という尺の制約とミュージカルという性格的な単純さからいささか唐突に感じられた。アニメーションは丹念な作りではあるものの、同時期にディズニーが製作した『ヘラクレス』に比べるとやや見劣りがする。全体として印象がおぼつかないのはミュージカル部分がうまくこなれていないからではないだろうか。 




Tetsuya Sato

2012年4月4日水曜日

十戒

十戒
The Ten Commandments
1956年 アメリカ 220分
監督:セシル・B・デミル

イスラエルの民がエジプトで奴隷となって追い使われ、救い主の出現を待ち焦がれていたころ、エジプトの神官がエジプトに悪い星が落ちたことをファラオに告げ、これを聞いたファラオは生まれたばかりのヘブライ人の男子をことごとく殺すように命じるが、ヘブライ人の女ヨシャベルは自分の息子を救うためにかごに入れて川に流し、赤ん坊を入れたかごはファラオの妹ビシアのもとへ流れ、子を得られぬまま夫を失ったビシアは赤ん坊はモーゼと名づけてエジプト王家の一員として育て、成長したモーゼはエチオピアを征服し、ファラオの実子ラメシスと王位を争い、ファラオの心は傲慢なラメシスよりもモーゼに傾き、王女ネフレテリの心もまたモーゼに傾き、そのモーゼはヘブライ人が過酷に使役されているのを見て労働条件を改善し、その成果として都市の建設を成功させ、一方モーゼの成功が当然ながら面白くないラメシスは奴隷頭デイサンを使ってヘブライ人の救い主の所在を探り、やがてネフレテリの前にモーゼの出生の秘密が明らかにされ、ネフレテリの口から自分の出生の秘密を知ったモーゼは実の母の家を訪れると悩んだ末にみずから奴隷となってヘブライ人のあいだに入り、デイサンの口からモーゼの出生の秘密を知ったラメシスはモーゼを捕えてファラオの前に引き出し、モーゼはラメシスの手によってエジプトから追放されて砂漠をさまよい、ミディアン人に救われて羊飼いとなり、ミディアン人の族長の娘と結婚して子供をもうけ、羊を飼って暮らしているとそこへヨシュアが現われてエジプトに誘い、するとモーゼはシナイ山の山頂に光を見て山にのぼり、そこで神の姿を見て声を聞き、自らの使命を悟って山をおりたところで休憩が入り、エジプトを訪れたモーゼはラメシスの前に現れてイスラエルの民の解放を求め、ラメシスが断るとイスラエルの神はナイル川の水を血の色に変え、燃える雹を降らせ、それでもラメシスが言わばテロには屈しないという態度をつらぬくとイスラエルの神はエジプトの長子をことごとく殺し、根負けしたラメシスがイスラエルの民を解放するとイスラエルの民が無数に現われ、荷車を牽き、家畜を連れ、家財を担いでエジプトから逃れ、子を失ったネフレテリはラメシスにモーゼの血を求め、ネフレテリの嘲笑を浴びたラメシスは軍勢を率いてイスラエルの民を追い、イスラエルの民は紅海を背にして追いつめられるが、ここでモーゼが神に祈ると火の柱が現われてエジプトの軍勢を食い止め、さらに海が割れて道が現われ、イスラエルの民はこの道を通って対岸に渡り、イスラエルの民を追うエジプトの軍勢は口を閉ざした海に飲まれ、モーゼは律法を得るべくシナイ山にのぼり、イスラエルの民はモーゼの帰りを待つあいだに黄金の子牛を作って偶像をあがめるという大罪を犯し、そこへモーゼが十戒を手にして現われて十戒の刻まれた石版を子牛に投げつけ、すると地面が割れて罪人を飲み込み、それでも神の怒りはやまないのでイスラエルの民はそれから四十年のあいだ荒れ野をさまよい、そのあいだに不信心者は根絶やしにされる。 
若々しいモーゼがチャールトン・ヘストン、ラメシスがユル・ブリンナー。『出エジプト記』を材料に、特にモーゼの前半生にはかなり自由な解釈を加え、要所に特徴的なキャラクターを追加して通俗的で面白い映画に仕上げている。画面の作りは絵画的で、俳優が置かれた空間は古めかしいほどに演劇的で、ダイアログは製作当時としてもいささか時代がかっているものの、画面に焼き付けられた想像力は奔放さを感じさせる。 



Tetsuya Sato

2012年4月3日火曜日

十誡

十誡
The Ten Commandments
1923年 アメリカ 146分
監督:セシル・B・デミル

イスラエルの民がエジプトで追い使われてるので、イスラエルの神はモーゼをエジプトに送り、モーゼはファラオの前に立ってイスラエルの民を解放するように求めるが、ファラオがテロには屈しないという態度を示すので、イスラエルの神はエジプトの初子をことごとく殺し、ファラオの子も殺すので、テロに屈したファラオはイスラエルの民を解放し、イスラエルの民がモーゼに率いられてエジプトから逃げ出すと、エジプトの神々のふがいなさに怒ったファラオが軍勢を率いて追って現われ、するとイスラエルの民の前で紅海が割けて道が現われ、イスラエルの民はこの道を通って対岸に渡り、モーゼが律法を求めるためにシナイ山にのぼると、その留守のあいだに偶像を拝んで激しく堕落し、律法を得て戻ったモーゼは激しく怒って律法を刻んだ石版を砕く、という話を禁酒連盟のパレードの先頭に立っていそうな母親がすでに成人している二人の息子に読み聞かせると、息子のうちの一方ダン・マクタヴィッシュは十戒をせせら笑い、安息日に恋人と踊り、それを母がとがめると自分はリッチでパワフルになると宣言して家を飛び出し、それから数年後には全米でも有数の建築業者に成り上がり、不正行為の数々によって富を築き、教会の建築を受注すると信心深くて十戒を守るまじめな大工である兄ジョン・マクタヴィッシュに監督を依頼する一方、部下にはコンクリートのセメント含有率を極限まで減らすように指示を出し、妻のある身でありながら婚姻の秘跡を踏みにじって中仏混血の女サリー・ラングと関係を持ち、一方、完成間近の教会に立って弟の不正に気づいたジョン・マクタヴィッシュが弟に工事の中止を求めていると、そのあいだにその教会には兄弟の母親が入り込み、そこへ手抜き工事で作られた教会の壁が崩れ落ち、下敷きとなった母親は自分の信仰が愛よりも畏れに傾いていたことをダン・マクタヴィッシュに告げて死に、ダン・マクタヴィッシュは母の死を見て激しく悔やむが、手抜き工事を嗅ぎつけた暴露専門雑誌に恐喝され、すべてを失うことを恐れて金を払う決意をすると、その金を工面するためにサリー・ラングの家を訪れ、サリー・ラングに贈った真珠の首飾りを奪い取るが、そこでサリー・ラングは自分がモロカイ島のハンセン氏病患者隔離施設からの脱走者であると告白し、自分もすでに感染していることを知ったダン・マクタヴィッシュはサリー・ラングを撃ち殺して家に戻り、母の肖像画の前で再び激しく悔やんでから妻に事情を説明し、そこへ警察がダン・マクタヴィッシュを殺人容疑で捕えるために現れるので、ダン・マクタヴィッシュは警察の手から逃れてモーターボートを荒れ狂う海に出し、一方、ダン・マクタヴィッシュの妻メアリーは自分もまたハンセン氏病に感染していると信じて雨の中に飛び出すとジョン・マクタヴィッシュの家を訪れ、信心深いジョン・マクタヴィッシュの口から聖書の言葉を聞いて平安を得る。
第一部が古代編、第二部が現代編という構成で、古代編に登場するモーゼがいささか貫録を欠いていて、どうにも手品師めいて見えるところが難点だが、巨大なセットと膨大な数のエキストラを動員している。技術的な問題からか、紅海が割けるところは溶けたゼラチンそのまんま、という感じであろうか。『出エジプト記』をそのままなぞっただけの古代編に比べると、現代編のほうは恋あり、野望あり、裏切りあり、殺人あり、逃亡あり、とそれなりにドラマチックな内容で、そこへ何を考えたのか、唐突にハンセン氏病がからむあたりが無理矢理な感じではあるものの、話の面白さでいちおう見せる。とはいえ、ダン・マクタヴィッシュがなにかしらのオブセッションのとりことなって十戒を上から順に破っていく、というような単細胞な作りのほうがもっと面白かったかもしれない。


Tetsuya Sato

2012年4月2日月曜日

天地創造

天地創造
The Bible: In the Beginning...
1966年 アメリカ/イタリア 175分
監督:ジョン・ヒューストン

『創世記』を天地創造から始めてアダムとイブの楽園追放、カインによるアベルの殺害、ノアの箱舟、バベルの塔のエピソードがあり、神の声を聞いたアブラムがウルの地を離れてカナンの地にたどり着き、アブラムの牧者とロトの牧者とのあいだで争いが起こったためにアブラムとロトは別れ、ロトはヨルダン川の平原に下ってソドムを訪れ、王たちの戦いがあってソドムとゴモラの側が破れ、捕虜となったロトを救うためにアブラムは郎党を率いて夜襲をしかけ、ロトとその財産が救い出され、アブラムの子サライは子を産まなかったので下女のハガルをアブラムに差し出し、ハガルは身ごもるとサライを見下し、ハガルはイシュマエルを産み、契約がおこなわれ、契約のあかしとして割礼がほどこされるようになり、アブラムはアブラハムとなり、アブラムの妻サライはサラとなり、サラは諸民族の王を産むと予告され、アブラハムの前に現れた御使いはソドムとゴモラの滅亡を予告し、ロトはソドムの門で御使いを迎え、御使いを捕えようとしたソドムの民は御使いににらまれて光を失い、ロトは御使いの命じるままに妻子を連れてソドムから逃れ、ロトの妻は振り返ってソドムの滅亡を見たのでその場で塩の柱に変わり、アブラハムの妻サラはイサクを産み、イシュマエルがイサクに侮辱を与えるのを見たサラはハガルとイシュマエルの追放を望み、アブラハムは神の声を聞いて妻の言葉にしたがい、砂漠に逃れたハガルの前に泉が湧き出し、神の声はアブラハムにイサクをいけにえに捧げるように命じるので、アブラハムはイサクを連れてソドムの廃墟を抜けて山にのぼり、そだの束の上に縛ったイサクを置いて屠ろうとするところまで。
ノアがジョン・ヒューストン、カインがリチャード・ハリス、アベルがフランコ・ネロ、ニムロデ王がスティーブン・ボイド、アブラハムがジョージ・C・スコット、サラがエヴァ・ガードナー、御使いがピーター・オトゥール。ディノ・デ・ラウレンティス製作による大作であり、ノアの箱舟はかなり大きなセットが組まれているし、そこに乗り込む動物たちも多彩だし(未発見大陸や北極の動物までが)、バベルの塔もなかなかに壮観ではあるものの、『創世記』の要所要所をとりあえず視覚化してみた、という以上のものではなく、内容が内容だけに特段の演出がおこなわれているわけでもない。 



Tetsuya Sato

2012年4月1日日曜日

ブルショット

ブルショット
Bullshot
1983年 イギリス 85分
監督:ディック・クレメント


第一次大戦の超人的なヒーローが、というところまでは『ビグルス』と同じだが、こちらは元ビートルズのジョージ・ハリスンが製作したかなりブラックなスラプスティック・コメディである。イギリス紳士階級とその階級的な確信を徹底的に笑い者にしている。したがってこのヒーローは本人が自分をヒーローだと確信し、また周りもそのように確信しているが事実上最後まで何もしない。事件を解決するのは博士の娘であり、ブルショット大尉が何かをしたとすればそれは大戦中に部下を危地に追いやり様々な悲惨な目に遭わせることだったりするのである(話しか出てこないが、みんな「大尉にいただいた任務」でひどいことになっている)。 




Tetsuya Sato