ぜんぶ、フィデルのせい La Faute a Fidel! 2006年 イタリア/フランス 99分 監督・脚本:ジュリー・ガヴラス 1970年、スペイン貴族出身で弁護士のフェルナンド・デラメサはフランコ政権下のスペインで反政府活動をおこなっていた姉マルガを家に向かえ、そのはずみで自分にできることを考え始め、考えた結果、マリー・クレール誌で編集者をしている妻とともにアジェンデ政権下のチリを訪れ、案の定、というか、革命家になって帰国する。そしてキューバ人亡命者で反共主義者の家政婦を解雇し、庭付きの家から狭いアパルトマンに引っ越してギリシャ人活動家(投獄中)の妻を家政婦に雇い入れ、パリを拠点にアジェンデ政権の支援に取り掛かり、一方、妻は妻で未婚の母の問題を取り上げるので、とにかく家には見知らぬひとがいつも出入りしているような状態になり、だから小学生でお姫様の話が好きなアンナはとにかく面白くない。引っ越したせいで自分の部屋もなくなってしまって、弟と二段ベッドで寝なければならないし、学校では宗教の時間に一人で自習室にいなければならないし、ふくれっつらをしているせいで家を訪れるひげ面の革命家たちから反動呼ばわりされるからである。原作があるようだが、監督本人の実体験が折り込まれているような気配もあり(父親がコスタ・ガヴラス)、なかなかに興味深い。非常にていねいに作られた映画で、愛情のこもったまなざしが多くの場面を引き立てている。そして主人公アンナに扮したニナ・ケルヴェルの強烈な存在感が忘れがたい(弟役のバンジャマン・フイエもよかったが)。
アポカリプス 黙示録 San Giovanni - L'apocalisse 2002年 イタリア・フランス・ドイツ・イギリス 93分 TV 監督:ラファエル・メルテス ドミティアヌス帝によってエペソのキリスト教徒が弾圧を受けていた頃、パトモス島に流されていた聖ヨハネは啓示を受け、書簡に黙示録をしたためる。最晩年のリチャード・ハリス扮するヨハネが牢屋のなかで天の国を幻視していると、迫害されたキリスト教徒が精神的な支柱を求めて寄ってくる、というのが主軸で、そこにローマ側の若干の事情などがかぶさっていた様子だが、180分あったオリジナルが半分に刻まれているのでよくわからない。とにかく刻まれているので映画としての評価は難しいものの、宗教劇としてはまじめな作りで、黙示録のイメージなども控えめながらそれらしいものになっている。
新約聖書 ヨハネの福音書 The Visual Bible: The Gospel of John 2003年 カナダ/イギリス 180分 監督:フィリップ・サヴィル 『ヨハネの福音書』のおおむね正確な映画化。つまり『パッション』あたりに比べると捕えられてから処刑されるまでの部分が大幅に刈り込まれているように見えるが、そのあたりも含めて福音書のままである。クリストファー・プラマーのナレーションが補足的にコメントを加え、愛想のよい笑顔を浮かべたイエスがはっきりとした形で情動を示す。おおむねスペインでロケされたと思われる古代のユダヤはそれなりの雰囲気を備え、衣装、美術にがんばりが見えた。3時間の長尺ではあるが、製作態度には慎重さと敬虔さが見え、好ましい仕上がりとなっている。
パッション The Passion Of The Christ 2004年 アメリカ・イタリア 127分 監督:メル・ギブソン ユダの裏切りからイエスの磔刑、復活までを描くキリスト受難劇の二十一世紀劇場版。ユダヤ教への一応の配慮など新しい要素も見受けられる(異論はあろうが)ものの、基本的には近代以前のデザインが採用されていて、だから十字架の上のイエスは東欧かどこかの教会の十字架象のように見えるし、出血の量もものすごいし、異教徒はやはり異教徒なのである。画面のテンションは高く、映像は真摯で見ごたえがあり、アラム語とラテン語で再現されたダイアログはきわめて興味深い。しかしキリストの受難を古拙に描くというあまりにも明瞭な目的のせいで作家性は認めにくい。
JESUS 奇蹟の生涯 Jesus 1999年 ドイツ/イタリア/アメリカ 111分 TV 監督:ロジャー・ヤング 第一次大戦とおぼしき戦場で騎兵がイエスの名を叫んで突撃し、負傷した歩兵がイエスの名を叫ぶ夢から覚めたイエスはヨゼフとともに大工仕事の出稼ぎに出ていたが、ユダヤの民はローマにかけられた重税に苦しみ、ローマ兵に守られた収税吏がイエスの家の戸を破ってヤギを連れ去り、事の次第をマリアから聞いたヨゼフはイエスを見てまだ予兆も現れないと嘆いてみせるが、そのヨゼフは間もなく倒れ、イエスは母に背中を押されてヨルダン川を訪れ、そこで洗礼者ヨハネから洗礼を受けると天から声がとどろいてイエスが神の子であることを認め、荒れ野に出たイエスをスーツを着た悪魔が誘惑し、荒れ野から戻ったイエスは腹を満たして二日のあいだ昏々と眠り、カナでおこなわれた結婚式では激しく踊って喉の渇きを訴えるが、母はワインがないことを伝えていまがそのときであるとイエスに告げ、そこでイエスは水をワインに変え、足萎えを直し、シモンの疑念を晴らすために網を魚でいっぱいにし、ローマ兵を攻撃するゼロテ党の一団と出会って暴力は何も解決しないと主張するが、ゼロテ党を率いるバラバは暴力が解決の手段であると主張して去り、エルサレムを訪れたイエスは神殿の物売りを駆逐し、その有様はピラトの宴会で余興として再演され、カエサルのものはカエサルに、という台詞を聞いて、いいこと言うじゃないか、とピラトが言い、一方、イエスは十二人の使徒を選び、ラザロを復活させてからロバにまたがってエルサレムに入城し、大祭司カヤパはイエスがエルサレムの情勢を悪化させているという政治的判断から逮捕を決意し、最後の晩餐がおこなわれ、イエスはゲッセマネの地で再び悪魔に誘惑され、悪魔は十字軍、魔女狩り、戦争などの未来を見せ、イエスの行為にいかなる意味もないと主張するが、イエスは罪の贖いを信じて悪魔を退け、逮捕されてピラトの前に送られ、ピラトはイエスを調べていかなる罪もないと判断を下してから鞭で打ち、バラバがイエスのかわりに釈放され、イエスは十字架にかけられ、イエスが絶命すると地震が起こってイエスの背後に見える水道が壊れ、イエスは三日後に復活して使徒たちの前に現れて福音を広めるように指示を与え、気楽な服装で現代世界に現れて子供たちに囲まれ、そこへなにやら気の抜けたフォークソングのような歌が流れる。 イエスの名においておこなわれた歴史的な悪の数々をイエスに見せたり、ユダやトマスのキャラクターに踏み込んでみたり、ピラトの脇にリウィウスとおぼしき人物を配置したり、と妙にひねったことをやっているが、当のイエスに関しては奇跡を連発して衆目を集めるという以上の描写がない。湖のほとりに立って石を投げて水切りをするイエスという光景も珍しいが、思いついたからやってみた、という以上のものではないだろう。不信心というわけではないものの、全体に敬虔さが欠けている。マリアが老いてなお美しいジャクリーン・ビセット、ヨゼフがアーミン・ミューラー・スタールという豪華版。しかもピラトはゲイリー・オールドマンだが、これは軽薄なだけで魅力がない。
聖母マリア Mary, Mother of Jesus 1999年 アメリカ 88分 TV 監督:ケヴィン・コナー マリアはヨゼフとの結婚を前に御使いから受胎を知らされ、また不妊であるはずのエリザベトがすでに妊娠六ヶ月であると知らされるので、マリアはエリザベトの家を訪れてヨハネの誕生に立ち会い、マリアもまた受胎を自覚して自宅に戻ってヨゼフのもっともな疑念に出会い、そのヨゼフは夜のあいだに御使いの声を聞いて心を改め、マリアとヨゼフはベツレヘムを訪れ、マリアは馬小屋でイエスを産み落とし、そこへ羊飼いが現れて神の子の誕生を祝福し、東方の三博士が現れて贈り物と警告を残し、ヘロデ王はベツレヘムの嬰児虐殺を命令し、エジプトに逃れたヨゼフとマリアは十二年後、少年となったイエスをつれてガリラヤへ戻り、それから十八年後、イエスは母の勧めにしたがってヨハネの洗礼を受けて使命を悟り、荒れ野へ出て四十日後に戻ると弟子をつれて布教を始め、カペルナウムで奇跡をおこない、エルサレムでは歓迎を受け、息子とともにエルサレムを訪れたマリアの前にはマグダラのマリアが現れてイエスが逮捕されたことを知らせ、マリアの前でイエスはゴルゴダの丘への道を進み、磔刑にされて息絶えると三日後によみがえり、マリアはイエスの姿を認め、すべきことは始まったばかりであると使徒たちに語る。 聖母マリアが主役なので、カナの婚礼はあっても山上の垂訓はない。最後の晩餐もその場にはいなかったので、逮捕をあとから知らされるだけである。主要な関心はイエスの母としてのマリアという人物の造形にあり、信仰において義しく、与えられた試練に対して自覚的に行動し、息子に対して明確な影響を与えていく。90分足らずという短い尺ではあるが、ケヴィン・コナーはベテラン監督らしい要領のよさで場面をまとめ、好ましい聖書物語に仕上げている。ちなみにイエスはクリスチャン・ベイル。
キング・オブ・キングス King Of Kings 1961年 アメリカ 178分 監督:ニコラス・レイ イエスの誕生から処刑、復活までを描く。ジェフリー・ハンターのイエスは若々しくてたくましく、眼光が鋭い、という感じであろうか。演技の軽さがたまに見えるが、それなりに雰囲気が出ていて悪くない。山上の垂訓の場面、ピラトの裁判の場面はなかなかに見ごたえがある。バラバはゼロテ党の指導者として登場し、イスカリオテのユダはバラバの仲間として現われて実用的な理由から(追い詰められれば彼も奇跡を起こして城壁を砕くであろう)イエスを裏切る。ただし全体を通じて言えばニコラス・レイの演出は個性が乏しく、強さがない。そしてこれは監督の責任ではないが、やはりメル・ギブスンの『パッション』を見たあとでは処刑の場面は迫力を欠く。それにああやって上腕をロープで支えてしまったら、胸腔に圧力が加わらないのでいつまで経っても死なないと思う。
プリンス・オブ・エジプト The Prince of Egypt 1998年 アメリカ 99分 監督:ブレンダ・チャップマン、スティーヴ・ヒックナー、サイモン・ウェルズ ヘブライの民がエジプトで追い使われていたころ、ファラオによる嬰児虐殺から逃れるためにナイル川に流された子供はエジプト王妃に拾われてモーゼという名を与えられ、エジプトの王子として育つと兄のラメシスとともにさまざまな悪事におこなうが、ふとしたことからミリアムと出会って自分の出生の秘密を知り、ヘブライの民に対して憐憫の情を起こすとそのまま王宮から逃れて砂漠を進み、やがてミディアンの民と出会って羊飼いになると族長の娘ツィポラと結婚し、ある日ふとしたことから洞窟の奥へ進んで、そこで燃える柴の前に立ち、神の声を聞いて天啓を受け、ツィポラとともにエジプトへ戻ると王宮へ入って王となったラメシスとの再会を果たし、歓迎するラメシスにヘブライの民を解放するように要求し、ラメシスがそれを断るとエジプトをさまざまな災厄が襲い、ついにすべての初子が命を落とすとラメシスはヘブライの民を解放し、ヘブライの民はモーゼに率いられて紅海の沿岸に進み、そこで背後に迫るファラオの軍勢を見て恐れていると、空に暗雲が走り、天から下った火の柱が軍勢を押しとめ、紅海が割けて海底に道が現われるので、ヘブライの民はこの道を進んで対岸にわたり、ヘブライの民を追うファラオの軍勢は海に飲まれ、対岸に渡ったヘブライの民はモーゼから十戒を受ける。 驚くほど豪華な声優陣によるミュージカル・アニメである。モーゼのエジプト王子時代についての自由な脚色はセシル・B・デミルの『十戒』に比べるといささかという以上に奔放に見える。心理的な変化も99分という尺の制約とミュージカルという性格的な単純さからいささか唐突に感じられた。アニメーションは丹念な作りではあるものの、同時期にディズニーが製作した『ヘラクレス』に比べるとやや見劣りがする。全体として印象がおぼつかないのはミュージカル部分がうまくこなれていないからではないだろうか。
十戒 The Ten Commandments 1956年 アメリカ 220分 監督:セシル・B・デミル イスラエルの民がエジプトで奴隷となって追い使われ、救い主の出現を待ち焦がれていたころ、エジプトの神官がエジプトに悪い星が落ちたことをファラオに告げ、これを聞いたファラオは生まれたばかりのヘブライ人の男子をことごとく殺すように命じるが、ヘブライ人の女ヨシャベルは自分の息子を救うためにかごに入れて川に流し、赤ん坊を入れたかごはファラオの妹ビシアのもとへ流れ、子を得られぬまま夫を失ったビシアは赤ん坊はモーゼと名づけてエジプト王家の一員として育て、成長したモーゼはエチオピアを征服し、ファラオの実子ラメシスと王位を争い、ファラオの心は傲慢なラメシスよりもモーゼに傾き、王女ネフレテリの心もまたモーゼに傾き、そのモーゼはヘブライ人が過酷に使役されているのを見て労働条件を改善し、その成果として都市の建設を成功させ、一方モーゼの成功が当然ながら面白くないラメシスは奴隷頭デイサンを使ってヘブライ人の救い主の所在を探り、やがてネフレテリの前にモーゼの出生の秘密が明らかにされ、ネフレテリの口から自分の出生の秘密を知ったモーゼは実の母の家を訪れると悩んだ末にみずから奴隷となってヘブライ人のあいだに入り、デイサンの口からモーゼの出生の秘密を知ったラメシスはモーゼを捕えてファラオの前に引き出し、モーゼはラメシスの手によってエジプトから追放されて砂漠をさまよい、ミディアン人に救われて羊飼いとなり、ミディアン人の族長の娘と結婚して子供をもうけ、羊を飼って暮らしているとそこへヨシュアが現われてエジプトに誘い、するとモーゼはシナイ山の山頂に光を見て山にのぼり、そこで神の姿を見て声を聞き、自らの使命を悟って山をおりたところで休憩が入り、エジプトを訪れたモーゼはラメシスの前に現れてイスラエルの民の解放を求め、ラメシスが断るとイスラエルの神はナイル川の水を血の色に変え、燃える雹を降らせ、それでもラメシスが言わばテロには屈しないという態度をつらぬくとイスラエルの神はエジプトの長子をことごとく殺し、根負けしたラメシスがイスラエルの民を解放するとイスラエルの民が無数に現われ、荷車を牽き、家畜を連れ、家財を担いでエジプトから逃れ、子を失ったネフレテリはラメシスにモーゼの血を求め、ネフレテリの嘲笑を浴びたラメシスは軍勢を率いてイスラエルの民を追い、イスラエルの民は紅海を背にして追いつめられるが、ここでモーゼが神に祈ると火の柱が現われてエジプトの軍勢を食い止め、さらに海が割れて道が現われ、イスラエルの民はこの道を通って対岸に渡り、イスラエルの民を追うエジプトの軍勢は口を閉ざした海に飲まれ、モーゼは律法を得るべくシナイ山にのぼり、イスラエルの民はモーゼの帰りを待つあいだに黄金の子牛を作って偶像をあがめるという大罪を犯し、そこへモーゼが十戒を手にして現われて十戒の刻まれた石版を子牛に投げつけ、すると地面が割れて罪人を飲み込み、それでも神の怒りはやまないのでイスラエルの民はそれから四十年のあいだ荒れ野をさまよい、そのあいだに不信心者は根絶やしにされる。 若々しいモーゼがチャールトン・ヘストン、ラメシスがユル・ブリンナー。『出エジプト記』を材料に、特にモーゼの前半生にはかなり自由な解釈を加え、要所に特徴的なキャラクターを追加して通俗的で面白い映画に仕上げている。画面の作りは絵画的で、俳優が置かれた空間は古めかしいほどに演劇的で、ダイアログは製作当時としてもいささか時代がかっているものの、画面に焼き付けられた想像力は奔放さを感じさせる。
十誡 The Ten Commandments 1923年 アメリカ 146分 監督:セシル・B・デミル イスラエルの民がエジプトで追い使われてるので、イスラエルの神はモーゼをエジプトに送り、モーゼはファラオの前に立ってイスラエルの民を解放するように求めるが、ファラオがテロには屈しないという態度を示すので、イスラエルの神はエジプトの初子をことごとく殺し、ファラオの子も殺すので、テロに屈したファラオはイスラエルの民を解放し、イスラエルの民がモーゼに率いられてエジプトから逃げ出すと、エジプトの神々のふがいなさに怒ったファラオが軍勢を率いて追って現われ、するとイスラエルの民の前で紅海が割けて道が現われ、イスラエルの民はこの道を通って対岸に渡り、モーゼが律法を求めるためにシナイ山にのぼると、その留守のあいだに偶像を拝んで激しく堕落し、律法を得て戻ったモーゼは激しく怒って律法を刻んだ石版を砕く、という話を禁酒連盟のパレードの先頭に立っていそうな母親がすでに成人している二人の息子に読み聞かせると、息子のうちの一方ダン・マクタヴィッシュは十戒をせせら笑い、安息日に恋人と踊り、それを母がとがめると自分はリッチでパワフルになると宣言して家を飛び出し、それから数年後には全米でも有数の建築業者に成り上がり、不正行為の数々によって富を築き、教会の建築を受注すると信心深くて十戒を守るまじめな大工である兄ジョン・マクタヴィッシュに監督を依頼する一方、部下にはコンクリートのセメント含有率を極限まで減らすように指示を出し、妻のある身でありながら婚姻の秘跡を踏みにじって中仏混血の女サリー・ラングと関係を持ち、一方、完成間近の教会に立って弟の不正に気づいたジョン・マクタヴィッシュが弟に工事の中止を求めていると、そのあいだにその教会には兄弟の母親が入り込み、そこへ手抜き工事で作られた教会の壁が崩れ落ち、下敷きとなった母親は自分の信仰が愛よりも畏れに傾いていたことをダン・マクタヴィッシュに告げて死に、ダン・マクタヴィッシュは母の死を見て激しく悔やむが、手抜き工事を嗅ぎつけた暴露専門雑誌に恐喝され、すべてを失うことを恐れて金を払う決意をすると、その金を工面するためにサリー・ラングの家を訪れ、サリー・ラングに贈った真珠の首飾りを奪い取るが、そこでサリー・ラングは自分がモロカイ島のハンセン氏病患者隔離施設からの脱走者であると告白し、自分もすでに感染していることを知ったダン・マクタヴィッシュはサリー・ラングを撃ち殺して家に戻り、母の肖像画の前で再び激しく悔やんでから妻に事情を説明し、そこへ警察がダン・マクタヴィッシュを殺人容疑で捕えるために現れるので、ダン・マクタヴィッシュは警察の手から逃れてモーターボートを荒れ狂う海に出し、一方、ダン・マクタヴィッシュの妻メアリーは自分もまたハンセン氏病に感染していると信じて雨の中に飛び出すとジョン・マクタヴィッシュの家を訪れ、信心深いジョン・マクタヴィッシュの口から聖書の言葉を聞いて平安を得る。 第一部が古代編、第二部が現代編という構成で、古代編に登場するモーゼがいささか貫録を欠いていて、どうにも手品師めいて見えるところが難点だが、巨大なセットと膨大な数のエキストラを動員している。技術的な問題からか、紅海が割けるところは溶けたゼラチンそのまんま、という感じであろうか。『出エジプト記』をそのままなぞっただけの古代編に比べると、現代編のほうは恋あり、野望あり、裏切りあり、殺人あり、逃亡あり、とそれなりにドラマチックな内容で、そこへ何を考えたのか、唐突にハンセン氏病がからむあたりが無理矢理な感じではあるものの、話の面白さでいちおう見せる。とはいえ、ダン・マクタヴィッシュがなにかしらのオブセッションのとりことなって十戒を上から順に破っていく、というような単細胞な作りのほうがもっと面白かったかもしれない。
天地創造 The Bible: In the Beginning... 1966年 アメリカ/イタリア 175分 監督:ジョン・ヒューストン 『創世記』を天地創造から始めてアダムとイブの楽園追放、カインによるアベルの殺害、ノアの箱舟、バベルの塔のエピソードがあり、神の声を聞いたアブラムがウルの地を離れてカナンの地にたどり着き、アブラムの牧者とロトの牧者とのあいだで争いが起こったためにアブラムとロトは別れ、ロトはヨルダン川の平原に下ってソドムを訪れ、王たちの戦いがあってソドムとゴモラの側が破れ、捕虜となったロトを救うためにアブラムは郎党を率いて夜襲をしかけ、ロトとその財産が救い出され、アブラムの子サライは子を産まなかったので下女のハガルをアブラムに差し出し、ハガルは身ごもるとサライを見下し、ハガルはイシュマエルを産み、契約がおこなわれ、契約のあかしとして割礼がほどこされるようになり、アブラムはアブラハムとなり、アブラムの妻サライはサラとなり、サラは諸民族の王を産むと予告され、アブラハムの前に現れた御使いはソドムとゴモラの滅亡を予告し、ロトはソドムの門で御使いを迎え、御使いを捕えようとしたソドムの民は御使いににらまれて光を失い、ロトは御使いの命じるままに妻子を連れてソドムから逃れ、ロトの妻は振り返ってソドムの滅亡を見たのでその場で塩の柱に変わり、アブラハムの妻サラはイサクを産み、イシュマエルがイサクに侮辱を与えるのを見たサラはハガルとイシュマエルの追放を望み、アブラハムは神の声を聞いて妻の言葉にしたがい、砂漠に逃れたハガルの前に泉が湧き出し、神の声はアブラハムにイサクをいけにえに捧げるように命じるので、アブラハムはイサクを連れてソドムの廃墟を抜けて山にのぼり、そだの束の上に縛ったイサクを置いて屠ろうとするところまで。 ノアがジョン・ヒューストン、カインがリチャード・ハリス、アベルがフランコ・ネロ、ニムロデ王がスティーブン・ボイド、アブラハムがジョージ・C・スコット、サラがエヴァ・ガードナー、御使いがピーター・オトゥール。ディノ・デ・ラウレンティス製作による大作であり、ノアの箱舟はかなり大きなセットが組まれているし、そこに乗り込む動物たちも多彩だし(未発見大陸や北極の動物までが)、バベルの塔もなかなかに壮観ではあるものの、『創世記』の要所要所をとりあえず視覚化してみた、という以上のものではなく、内容が内容だけに特段の演出がおこなわれているわけでもない。