2012年2月1日水曜日

陸軍

火野葦平「陸軍」(中公文庫)


戦時中に朝日新聞に連載されていた戦意高揚小説である。
長州戦争の段階で小倉の質屋の倅に自然と国体の意識が目覚めることがあるかどうか、はなはだ疑問ではあるが、そこはそれ戦意高揚小説だから、ということになるのであろう。仮にそうであるとしても、そこから軍人勅諭に横滑りしていくのも妙だという話になるわけではあるが、やはりそれも戦意高揚小説だから、ということになるのであろう。1943年製作のナチスドイツ版『タイタニック』を引き合いに出すまでもなく、特定の政治的状況のために文脈が奉仕するとなかなかに理解しにくい事態が発生することになる。ただ、我が国の場合、やはり困ると思うのは、その結果として出現する文脈が「国のために我が身を差し出す」のではなく「国体のために命を投げ出す」という形になってしまうことで、この「陸軍」でもどうやら死ぬことの方が先に立っているのである。扇動的な要素はほとんどないし、コレヒドール戦におけるアメリカ軍の露悪的な描写は別としても、おおむね誠実に書かれた小説ではないかと思う(それどころか戦況が悪化しなければ、構造的に画期的な小説にしあがっていた可能性もあるのである)。
とはいえ、なにはともあれ戦争をやっているわけであり、戦争でやっているのは軍事行動であるわけで、国民的な意識として軍事行動における生残性の低さを容認するような発想はわたしとしてはとうてい受け入れられない。人間とは生き残ってなんぼであって、「戦意高揚とは死ぬことと見つけたり」では、困るのである。一説によれば「どうしようもなく死んでいく」というのが国民性に適合しているらしいのだが、わたしはこれが嫌いなのである。「散華」を好む風潮はなおも根強く残っているし、昨今、負けた戦争を正当化したがる種類の人間がいくらか増えてきているようだが、負けた戦争は負けた戦争であり、負けた以上、どう正当化もできないということに気がついてほしい。国家としての健全な発想があるとすれば、それはあくまでも「今度はうまくやろうぜ」であって、得体の知れない言説を弄して過去を改竄することではない。




Tetsuya Sato