2011年11月30日水曜日

ロマノフ王朝の最期

ロマノフ王朝の最期(1981)
Agoniya
監督:エレム・クリモフ


厳密にはロマノフ王朝の最期ではなく、ラスプーチン暗殺を主軸にした帝政末期の国家的苦悶を荘重に描いている。卓越した色彩デザイン、そして記録映画や写真をコラージュした映像は古典的かつ芸術的であり、とりわけ慎重に配置されたモンタージュはエイゼンシュテインを思い出させる。集合写真を多用する手法は先に見た『炎628』でも使われていたが、この映画でもきわめて効果的である。国会の記念写真に始まり戦傷者と看護婦、貴族、労働者、死体、群集と連なる何枚もの集合写真は歴史の背後に埋もれている無数の人間の存在を静かに観客に伝えている。
ただし難しさが残る。映画は16年から10月革命までの短い文脈を選んで革命を結末としているが、現代的な視点で眺めた場合、革命はやはり始まりなのである。帝政及び第一次世界大戦という悲惨の延長線上に革命とそれ以降の時代が存在しているわけであり、あの時点での苦悶は恐ろしいことにそれから半世紀以上にもわたって継承されているという事実である。政治的な上部構造が置き換わっただけなのだ。もちろん1981年当時の、いや、いつの時点であろうとモスフィルムにそうしたタイムスパンを採用する余地がないことは明らかなので、私はまるで無意味なことを言っているのかもしれない。歴史の重量感を備えたこの映画に与えられた歴史的な制約が、見ていてなんとなく苦しいのである。
ロマノフ王朝の最期【デジタル完全復元版】 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月29日火曜日

セインツロウ ザ・サード

セインツロウ ザ・サード
Saints Row: The Third/THQ/PS3

スティルウォーターを拠点とするストリートギャング、サード・ストリート・セインツは前作『セインツロウ2』の結末を受けてセインツ・アルター・グループを形成してブランド化へ走り、キャラクター・マーチャンダイジングなどを展開していたが、それはそれとしてやはりギャング行為もするということで銀行を襲撃したところ、それが国際シンジケートの銀行で、派手な銃撃戦の末に捕えられ、シンジケートの配下となって上納金を収めるように要求され、もちろん拒絶してシンジケートが支配するスティールポートへ乗り込み、シンジケートを壊滅させる、というプロットを背景にした箱庭型のアクション・ゲームで、基本的には町の中を自由に歩きまわり、ミッションやサブミッションをこなし、敵のギャングと抗争し、支配地域を広げていく。その範囲では前作とおおむね同じだが、今回は途中から敵が事実上の軍隊になり、空母や戦闘機が投入されてくるので、こちらも戦闘機を撃墜し、空母を撃沈することになる。そしてシステムがそれを保証しているので、戦闘機を撃墜し、空母を撃沈する合間に路上強盗や押し込みをすることもできる。
ゲームの導入部はすでに『スターウォーズ』のパロディであり、序盤のアクションは『シューテムアップ』からの引用になり、途中のミッションでは電脳空間に放り込まれて『トロン』をやり、そこで提供されるアバターはなぜか便器であり、ファンタジー系RPGのいささか嫌みなパロディもあり、ゾンビが大群になって現われ、マスクをかぶってプロレスをやり、ピンク色の巨大なディルドを振りまわして敵を殴り、衛星兵器で敵を爆撃し、ついでにバート・レイノルズと対面する。単にてんこ盛りというよりも、何かひどく混沌としている世界になっているのである。にもかかわらず、ゲームとしてのバランスはよく、豊富な選択肢もあって、プレイアビリティはかなり高い。リアリズムやモラルを気にしたいひとは『GTA』をすればいい、という思い切りのよい差別化がおこなわれているような気がする。スティールポートの町が単調で魅力に乏しい、店舗のバリエーションが少なくなり、店で売っている衣類もセットが増えて、前作に比べると組み合わせが単調になった、などの難点もあるが、全体からするときわめて上質なゲームと言うべきであろう。


Tetsuya Sato

2011年11月28日月曜日

わたしなりの発掘良品『遥かなる戦場』(1968)

遥かなる戦場(1968)
The Charge of the Light Brigade
監督:トニー・リチャードソン


軽騎兵旅団を指揮するカーディガン卿は知らぬ者のいないアホウで、インド帰りで自信過剰のノーラン大尉が噛みついてくると、とにかくそれが気に入らないのでノーラン大尉を謹慎させたり逮捕させたりしていたが、それが新聞ダネにされてスキャンダルを呼び、ノーラン大尉の直訴によってラグラン卿が調停に乗り出してどうにか事を収めた頃、クリミア戦争が始まるのでラグラン卿を総司令官としてイギリス軍がクリミアにわたり、多数の病人を出しながらロシア軍と交戦、やがてイギリス軍とセバストポリ湾のあいだをロシア軍が遮断するので、ラグラン卿はロシア軍の砲列の移動を阻止するために騎兵隊に進撃を要請するが、その命令を伝えたのがノーラン大尉で、命令を受けたルーカン卿とその配下にあるカーディガン卿とは互いをアホウと罵る関係にあり、そのことは現場でも変わることがなかったのでどちらがどちらともなく叫びたて、なんだかよくわからないままにラグラン卿の命令はロシア軍砲兵陣地への突撃命令と曲解され、カーディガン卿の指揮で軽騎兵旅団が突撃する。カーディガン卿がトレバー・ハワード、限界が近いラグラン卿がジョン・ギールグッド、ノーラン大尉がデヴィッド・ヘミングス。超大作である。『進め龍騎兵』(1936)と同じ題材を扱っているが(原題も同じだが、まずテニソンの詩があるので、これはそういうものであろう)、あちらがエロール・フリンならば、こちらはなにしろ監督がトニー・リチャードソンなので、きわめて批評性の強い作りになっていて、歴史的な状況は凝ったアニメーションで説明され、支配階級はおおむねにおいてアホウとして扱われる。話がクリミアに移るのは中盤からで、それまでは軽騎兵の訓練風景、厩舎、厩舎の背後の女たちの仕事部屋などが詳細に描かれ、戦争が始まると馬匹輸送船の内部、黒海の嵐による馬の損耗、カラミタ湾上陸、行軍、伝染病による兵士の損耗、野営地の設営と珍しい描写が山ほども登場する。戦闘シーンもよくデザインされており、クライマックスの突撃はかなりすごい。演出上の創意がややまとめ切れていないところに瑕疵が見えるものの、見ごたえのある映画になっている。 
遥かなる戦場 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月27日日曜日

日曜日には鼠を殺せ

日曜日には鼠を殺せ(1964)
Behold A Pale Horse
監督:フレッド・ジンネマン


スペイン内乱の終結とともに共和国側の闘士たちはフランス側に亡命し、指導者であったマヌエル・アルティゲスもまた武器を捨てて国境を越える。それから二十年。アルティゲスはたびたび越境してスペインで銀行強盗を繰り返し、サン・マルティンの町の警察署長ヴィノラスはアルティゲスを捕えるために自分のキャリアを賭けて罠を仕掛ける。病身で余命いくばくもないアルティゲスの母親を病院に収容し、病院の周囲を狙撃兵で取り囲み、密告者をフランス側に送ってアルティゲスをおびき寄せるという計画であったが、当のアルティゲスは母親の病状を聞いてもいっこうに腰を上げようとしない、という話である。
二十年経ってもまだ人民の英雄をやっているアルティゲスがグレゴリー・ペックで、くわえタバコに無精ヒゲを生やしてすっかりふてくされている様子がなかなかによろしい。対する警察署長がアンソニー・クインで、こちらは真面目に仕事をする一方で情婦を抱え、なぜか妻のことを妙に恐れていたりする。話の大半は国境のあちら側のフランスで進行し、状況を読みきれないアルティゲスが苛々しながら煩悶し、善意のみで警告しにやってきたオマー・シャリフの神父を殴ったりする。やっていることは山賊の頭目と同じでも、いちおうマルキストなのである。ほとんど停滞したままのプロットがフレッド・ジンネマンらしいシャープな映像で描き出され、ときおり現われる大胆な視点の動きには思わずはっとさせられるが、とにかく猛烈に地味で渋い。
日曜日には鼠を殺せ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月26日土曜日

炎628

炎628(1985)
Idi i smotri
監督:エレム・クリモフ


ソ連軍の反攻が始まる直前の1943年、ドイツ軍占領下の白ロシアではパルチザンが村から牛を徴発し、村を失った村人たちは隣の村から牛を徴発し、最後にドイツ軍が霧の中から出現してすべてを焼き払う。緑と黒、そして霧の白を基調にした色彩設計が効果的に使われていて、全編が陰鬱で今にも影の中へ消えてしまいそうだ。影が子細を埋め尽くすと輪郭だけが後に残り、輪郭に囲まれた闇はとてつもなく不気味に見える。そこへ炎が点々と散らされていくが、その情景はすでにこの世のものではない。作り手がいかなる意図を抱いていたのだとしても、視覚的な素晴らしさのせいでリアリズムとファンタジーの境界を見定めるのが難しいのだ。そしてその結果、ここに描かれている惨劇はすでに特定の事件としての意味を失っていて思弁的である。もし何かの迷いが見えたとするならば、それは直截な解決へと常に人を傾ける人間の本性に根差した迷いであろう。
炎628 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月25日金曜日

わたしなりの発掘良品『大反撃』(1969)

大反撃(1969)
Castle Keep
監督:シドニー・ポラック


1944年の冬。バルジの戦いの直後のベルギーの森。少人数のアメリカ軍部隊がドイツ軍の攻撃を避けて奥深い森を進み、マントを翻して馬を駆る女を彼方に認め、その後を追うと古い城塞に行き当たる。そこはマルドレー伯爵の城で、森の中で見かけた女は伯爵の妻テレーズであった。アメリカ軍のファルコナー少佐(黒い眼帯をしたバート・ランカスター)は伯爵の城を防御のための拠点にする。すると副官の大尉はそもそも美術教師であったために城の美術に夢中になり、兵士の一人は城にあったドイツ製の車に夢中になり、パン屋の伍長は近くの町へ出かけていって、そこで見つけたパン屋の後家といい仲になる。そして少佐は伯爵の妻を寝取るが、夫としての義務を放棄している伯爵は少佐の行為を歓迎する。やがてドイツ軍が近づき、少佐は援軍を求めて白馬にまたがり、近くの町でアメリカ軍の敗残部隊を見つけ出す。だが彼らは狂った説教師(ブルース・ダーン)に指揮されており、ドイツ軍の攻撃の前には力がなく、やがて現われたドイツ軍戦車は教会に踏み入って鐘楼を破壊する。そして少佐は部下とともに城にたてこもり、ドイツ軍は真っ赤な消防車まで動員して城を攻める。ミッシェル・ルグランの腑抜けた音楽、通俗的な頽廃趣味とインテリぶった無常観が全編に漂う変わった戦争映画である。雰囲気を重視したせいか、結果としてはプロットをまとめきれていない。そこから先は趣味の問題ということになるのだろうが、悪趣味を買いたいという気持ちが勝ってしまって、実を言うとわたしは好きなほうなのである。
大反撃 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月24日木曜日

わたしなりの発掘良品『プロデューサーズ』(2005)

プロデューサーズ(2005)
The Producers
監督:スーザン・ストローマン


50年代のブロードウェイ。落ち目になったプロデューサー、マックス・ビアリストックの帳簿を整理するために現われた会計士レオ・ブルームは打ち切りになったミュージカル『ファニーボーイ』(ハムレットが原作らしい)の帳簿を調べるうちに赤字になっても多額の利益を生み出す図式に気がつき、それを聞いたマックス・ビアリストックはレオ・ブルームを仲間に引き入れ、確実にこけるミュージカルを仕立てて上げるために、まず最悪の台本を探し、次に最悪の演出家を探し、できあがった芝居を舞台にのせるとこれがなぜか大当たりで、というお話で、オリジナルはメル・ブルックスによる1968年のミュージカルだという。妙にやぼったくてひどく下世話なところはたしかにメル・ブルックスである。途中に挿入される歌と踊りはもしかしたらブロードウェイ上演当時でもややクラシックだったのではないか、という気がするが、裏を返せば正攻法ということであり、盛りだくさんの内容を正直な演出でやっているので見ていて退屈することはない。ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリックはいつもどおり芸達者だし、ユマ・サーマンまで歌って踊る。最大の見どころは劇中劇として登場するミュージカル『春の日のヒトラー』で、突撃隊がタップを踏み、親衛隊が歌って踊るばかばかしさはかなり壮絶である。難を言えば、ここがあまりにもすさまじいので結果としてまわりがかすむという点であろう。 
プロデューサーズ コレクターズ・エディション [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月22日火曜日

わたしなりの発掘良品『1984』(1984)

1984(1984)
Nineteen Eigty-Four
監督:マイケル・ラドフォード


ジョージ・オーウェルの『1984年』の映画化。世界は三大勢力によって分割されて常に戦争状態にあり、独裁国家オセアニアは「党員」と「プロレ」の二階級に分割され、「党員」は国家のために一切を奪われ、「プロレ」に人間性は認められていない。そしてビッグブラザーはあらゆる場所に配置された双方向テレビを通じて一切を見ているのである。だがあるとき、党員ウィンストン・スミスは白紙のノートを手に入れたことで自我の存在を思い出し、堕落を夢見ながら未来に向かって挨拶を送る。そうしていると堕落を実現している女が前の方から現われて夢の世界に誘うのであった。
わたしの友人はこの映画について「オーウェルはよい原作を書いた」と評していたが、まさにそのとおりであって、原作以上に原作が求めていた世界が描き出されている。ジョン・ハートはウィンストン・スミスに生き写しであり、これが遺作となったリチャード・バートンはまるで死神のように見える。そして背景となる世界はうんざりするほど徹底したリアリズムによって実に見事に再現されているのである。 
1984 [VHS]

Tetsuya Sato

2011年11月21日月曜日

わたしなりの発掘良品『ダークスター』(1974)

ダークスター(1974)
Dark Star
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ジョン・カーペンター、ダン・オバノン
編集・特撮:ダン・オバノン


恒星間宇宙船ダークスターは地球を旅立ってからすでに20年、様々な星系に立ち寄って不安定な惑星を爆破してきたが、船体には故障が目立ち始めている。放射能漏れが起こって地球に援助を求めたものの、予算の関係で拒絶され、電気系統の故障でパウエル指揮官が死亡し、今は副官のドゥーリトルが指揮を取っている。状況は芳しくなかった。休息室には穴が空いて居住不可能な状態にあり、乗員は食料倉庫にベンチを並べてむさくるしく眠っている。倉庫が一つ壊滅したために、ダークスターはトイレットペーパーの在庫を失っていた。乗員の士気も低下している。タルビーは観測室に閉じこもって船内を歩くことを拒み、ドゥーリトルはサーフィンの話しかしない。ボイラーは船内でレーザー砲を発砲し、ピンバックは会話を盛り上げようと余計なことばかりを話題にし、一人でビーチボール型エイリアンと戦っていた。
やがてダークスターは宇宙嵐に巻き込まれ、嵐を抜けていく過程で船体の一部に新たな損傷を負って通信系統がエラーを起こした。そして惑星破壊爆弾20号は誤情報を信じて自分自身の爆発準備に取り掛かり、船内コンピューターの説得に応じて爆弾倉に復帰する。二度目のエラーはピンバックに追われたビーチボール型エイリアンによって引き起こされ、爆弾20号は再び爆発準備に取り掛かるが、船内コンピューターの再度の説得に応じてどうにか爆弾倉に引き上げた。そしてダークスターが破壊目標とする惑星に近づき、乗員たちが本番で20号の投下準備に取り掛かったとき、三度目の事故が起こって爆弾20号は投下不能の状態になる。だがカウントダウンは始まっており、爆弾20号は再三の説得に応じようとしない。ダークスターに危機が訪れ、ドゥーリトルは宇宙服に身を包んで爆弾に近づき、現象学の立場から爆弾20号に外界の実在性に関する判断の中止を求めていく。
ジョン・カーペンターの処女作である。ダン・オバノンが大活躍しているのである。予算や技術よりも、とにかく頭と手を使って作った映画という感じがして、見た当時(1981)に非常に強い共感を覚えた。その頃はわたしも8ミリで映画を作っていたのである。主題歌「ベンソン、アリゾナ」がなんとも熱く胸に染み入る。
ダーク・スター [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月20日日曜日

わたしなりの発掘良品『砂漠のライオン』(1980)

砂漠のライオン(1980)
Lion of the Desert
監督:ムスタファ・アッカド


1920年代。イタリアはリビアを植民地としていたが、その東部に位置するキレナイカではベドウィンがしつこく抵抗を続けていた。そこでムッソリーニは冷酷非情なグラツィアーニ将軍を大軍とともに送り込む。ベドウィンの指導者オマル・アル・ムフタールがアンソニー・クイン、グラツィアーニ将軍がオリバー・リード、ムッソリーニがロッド・スタイガー、イタリアに寝返ったイスラム教父がジョン・ギールグット、ベドウィンの女がイレーネ・パパスというオールスター・キャストで、たいそう金がかかっている。話は1929年から1931年までで、グラツィアーニ将軍率いるイタリア軍が初めは砂漠で、さらに山岳地帯でベドウィンと戦う姿を描いている。本来ならば印象は逆になってしかるべきだが、ロッド・スタイガー、オリバー・リードの面白がっているとしか思えない熱演ぶり、誇大妄想を地で行くファシスト・イタリアの大見得切りまくりが目について、真面目なベドウィンが目立たないのである。イタリア軍はベドウィンの騎兵を相手に戦車、装甲車、航空機にイペリット・ガスまで投入する。イタリア軍の多彩な制服バリエーション、強制収容所、リビアの半ばを縦断する鉄条網というような部分まで抜かりなく折り込まれ、全体からすれば大味な作品だが、とにかく内容はぎっちり詰まっている。戦闘シーンも迫力があるので3時間は長くない。 
砂漠のライオン [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月19日土曜日

わたしなりの発掘良品『ザ・メッセージ』(1976)

ザ・メッセージ(1976)
Mohammad: Messenger of God
監督:ムスタファ・アッカド


七世紀初頭、メッカでは360もの偶像をカーバ神殿にかざって巡礼者を呼び寄せ、巡礼者が落とす金でうるおっていたが、そこへ神の啓示を受けたマホメットが現われて偶像崇拝を批判し、悪しき慣習の撤廃を訴え、さらには人種、性別、信仰による差別の撤廃も訴え、人間の平等を訴えるので、このままでは商売に差し支えると考えたメッカの支配階級はマホメットとその同調者を迫害、信徒はアビシニアへ逃れ、マホメットはアカバの洞窟へ隠れ、そこへメディナの人々が現われてメディナにおける対立の調停をマホメットに頼み、マホメットは信仰に帰依することを条件に依頼を受け入れ、砂漠を越えてメディナに移ると最初のモスクを建設する。一方、メッカでは信徒の財産を没収する動きがあり、事実を伝え聞いた信徒はマホメットに報復をもとめ、剣を嫌うマホメットもやがて信徒を率いてメッカを目指し、メッカの軍勢と交戦してこれを下すが、翌年、報復をもとめるメッカの軍勢がメディナに迫り、マホメットの軍勢はこれに敗れ、このあとイスラムとメッカのあいだに十年間の休戦協定が成立する。その十年のあいだにイスラムは勢力を伸ばし、メッカが協定を破るとメッカに向かって巨大な軍勢が押し寄せることになり、メッカは焦土となることを恐れて戦わずに降伏、マホメットは帰還を果たし、カーバ神殿から偶像を追放する。きわめて敬虔な態度で作られた映画なのでマホメットは一人称でしか登場しないが、その一人称がやや唐突で、少しばかり不敬にも感じられた。おもにイスラムの寛容をうたう内容は始原期の状況をよく整理し、対立軸にそって人物関係を効率的に配置し、3時間の長尺をもたせている。格別の才気を感じられるような場面はないが、基本に忠実で、粘り強い演出は好ましい。出てくる馬がすごくて、アンソニー・クインも含め、馬上のひとの馬をあやつる手つきも相当に見ごたえがある。
ザ・メッセージ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月18日金曜日

わたしなりの発掘良品『ミッション・クレオパトラ』(2002)

ミッション・クレオパトラ(2002)
Asterix & Obelix : Mission Cleopatra
監督:アラン・シャバ


ゴシニ、ユデルゾのコミック『アステリックス』の映画化。ちょっと重たくて間抜けな雰囲気はよく出ている。紀元前52年のエジプト、女王クレオパトラはエジプト人が世界に冠たる民族であることを証明するために、カエサルのための宮殿を三か月で完成させることにする。そのために選ばれたのがエジプトでいちばん暇な建築家ニュメロビスであったが、失敗すればワニのエサになると聞かされて、ニュメロビスは援助を求めてガリアへ旅立つ。ガリアに住むドルイドの魔術師パノラミックスから超人になる薬を分けてもらって、それでなんとかしようというひどく曖昧な魂胆であったが、パノラミックスからは薬の一般販売はしていないと言われ、ニュメロビスは落胆する。だが幸いにもパノラミックスにはアレキサンドリアの図書館に用があり、だからエジプトに同行しようという話になり、パノラミックスが腰を上げるとアステリックス、オベリックスも腰を上げ、途中、地中海で赤髭のバイキングを撃退しながら(というか、アステリックス、オベリックスが怖くて勝手に自滅していたが)みんなでエジプトまでやってくる。そしてニュメロビスが工事を進めていくと、その一方では宮廷建築家のアモンボフィスがニュメロビス失脚をたくらんで陰謀を進め、労働者を扇動したり、石材の輸送を妨害したり、カエサルと結託したりする、というような話がついてはいるが、一言で正体を言ってしまえばしつこくて野暮ったいギャグを満載したバラエティショーなのである。踊りもあるし、パロディもあるし(ローマの将軍はどこかで見たような形のヘルメットをかぶっているし、建築家対建築家の決闘がカンフー・モードに入っていくと台詞も広東語になってしまう)、アニメもあるし(アニメではないが、なぜか伊勢エビに関する意味不明の短編映画までが入っている)、とにかく盛りだくさんの内容で、それなりに手間もお金もかかっているし、ということで、口を開けて見ている分には悪いことは何もない。
ミッション・クレオパトラ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月17日木曜日

わたしなりの発掘良品『ランド・オブ・アドベンチャー』(2008)

ランド・オブ・アドベンチャー(2008)
Carlston za Ognjenku
監督:ウロシュ・ストヤノヴィッチ


第一次世界大戦で村から男がいなくなり、なんとか帰って来た二人のうちの一人はよくわからない事情で墓石につぶされて死に、残った一人は葡萄畑を守るために働いて、葡萄畑を守るために葡萄畑を地雷原にしたところ、地雷の爆発で死に、以来、葡萄畑で働くことは命がけの作業になり、女たちはくじ引きで葡萄畑に行く者を決め、葡萄畑では面白いように爆発が起こり、腕のよさで知られた泣き女の美人姉妹はいかず後家となって朽ち果てる運命を知って涙を流し、処女のままでは死にたくないという理由で村に残ったたった一人のおじいさんの家を訪れ、おじいさんが不気味にすり寄ってくるのを見て悲鳴を上げ、この悲鳴でおじいさんが死んでしまうと村の女たちは姉妹を魔女となじって火あぶりにすることに決め、姉妹は火あぶりから逃れるために村へ男を連れてくることを約束し、村の魔女は約束を守らせるために姉妹の祖母の魂を迷わせ、旅の末に町を訪れた姉妹はそれぞれに男を見つけ出し、逡巡の末に村へ戻ると村中の女が現われて男に触り、女たちの歓待を受けて男たちは心を乱す。妙な邦題がついているが、原題は『オニエンカへのチャールストン』といったような意味であろう。オニエンカは姉妹の姉のほうの名前である。まず、手間のかかった撮影が非常に美しい。風景はひたすらにファンタジックで、話はおおむねにおいて寓話に近く、演出はときにコミカルなほうへと走りながら映画をセルビアの現代史へと回収していく。前半のパワーが終盤まで持続しないという点でやや力不足を感じたが、それでも見ごたえのある作品である。 
ランド・オブ・アドベンチャー [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月16日水曜日

わたしなりの発掘良品『スモーキング・ハイ』(2008)

スモーキング・ハイ(2008)
Pineapple Express
監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン


召喚状の配達を仕事にしているデール・デントンは車を転がしながらマリファナをふかし、いちいち変装しては召喚状をあて先に届け、昼間から女子高生のガールフレンドと逢引をしたり、友達の売人ソール・シルバーから上物のマリファナを手に入れたりと苦労のない生活をへらへらと送っていたが、ある晩、召喚状を届けにいった先で麻薬業界の大物テッド・ジョーンズがひとを殺す場面を目撃し、あわててその場から逃げ出すものの、うっかり投げ捨てたマリファナの品種から足がつき、ソール・シルバーともども殺し屋に追われるはめになる。ところが逃げるあいだもマリファナをたしなむことはやめようとしないので、どうにもやっていることに集中できないし、ときどき朦朧としているし、ひとの話は聞いていないし、だからどうにもへまが目立つわけだけど、それでも立派にカーチェイスはするし、派手な銃撃戦もして(撃たれてもあまり痛くないらしい)、そうするうちに悪は滅び、マリファナの売人とマリファナ依存患者はさまざまな困難を克服して友情をあたため、どうやら人間的にも成長する、という悪趣味なコメディである。冒頭、1937年のアメリカ某所がモノクロで現われ、陸軍の地下実験施設でおそるべき人体実験が、というところからすでにいかがわしい(しかもその場面が最後にちゃんと回収されている)。セス・ローゲンとジェームズ・フランコのかけあいのテンポが実にいい感じで、ジェームズ・フランコの妙な具合に地に足がついた売人ぶりがなかなかにおかしい。 
スモーキング・ハイ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月15日火曜日

わたしなりの発掘良品『ジェヴォーダンの獣』(2001)

ジェヴォーダンの獣(2001)
Le Pacte des loups
監督:クリストフ・ガンズ


18世紀フランスのいわゆる「ジェヴォーダンの野獣」に材を取っているけれど、いわゆるUMAものでは全然なくて、どちらかと言えばカンフー系のアクション映画なのである。ジェヴォーダンに怪物が出現して地元に迷惑をもたらしていると、博物学者であるフロンサック卿がパリから送り込まれてきて、という部分にしてからがすでに説明の順序が逆転していて、ミッションが明かされる前にまず登場して女装した兵士たちと一戦やらかすくらいなので、つまり断固としてアクション映画なので、未知動物の奥ゆかしい話は少しでも期待してはいけないということになる(いちおう少しだけ期待していた)。そして話の舞台になっているジェヴォーダンも住人が田舎だ田舎だと主張する割には貴族はみな金持ちそうにみえるし、パリにだってないような娼館があったりするし、時代考証の方も見たところでは確信犯で19世紀に寄せてある。「ジェヴォーダン」が言い訳程度なら「18世紀」も言い訳程度で、そうやってやりたい放題の「歴史アクション映画」のワンダーランドをでっち上げると、そこへフレンチ・インディアン戦争の勇者、モホーク族の最後の一人、アフリカ帰りの怪人、反啓蒙主義者、謀反人、法王庁のスパイ、ドイツ系ロマとおぼしき戦闘員の大集団、ミステリアスな白狼、謎の野獣などを放り込んで派手にドタバタとやらせているのである。後半の人物関係と謎解きの部分に少々唐突さがあることは否定できないが(どうして、そんなことが、ジェヴォーダンで)、恋愛だの死と再生だの不要のように見えても思いつく要素は片端から盛り込んでいった気力と、盛り込んだものをとにもかくにも消化し尽くした体力は評価されなければならないだろう。美術はバンドデシネの系統でまとめられていて、劇中に登場するスケッチのたぐいにもその傾向がはっきりと現われている。アクション・シーンは徹底的にモダンで、露骨なワイヤーワークこそないものの香港映画を思わせる。ギミックもすごい。ちなみに「野獣」はジム・ヘンソンの工房製で、いかにも野獣的な目玉が印象的であった。 
ジェヴォーダンの獣 ― スタンダード・エディション [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月12日土曜日

ソダーバーグ『コンテイジョン』(2011)

コンテイジョン(2011)
Contagion
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
香港での出張から帰国した女性が痙攣を起こして病院へ運ばれ、そのまま死亡するので解剖してみると未知のウィルスが発見され、東京でも男性がバスの中でいきなり死亡し、CDCがウィルスの解析を始め、WHOが感染経路の特定にかかり、そうしているうちに感染が広がり、ブロガーが怪しい情報を流し、軍隊が出動して移動が制限され、パニックが始まり、略奪が起こり、町は荒廃し、やがてCDCがワクチンの合成に成功するが、感染者の数に対してワクチンの製造が追いつかないので、待ち行列はとんでもない長さになり、ブロガーは陰謀説を持ち出し、ワクチン接種の優先順位をめぐってトラブルが起こり、事態は時間をかけて収拾されるが、事の起こりは自然環境の乱開発にあるという内容を、ほぼ完全にドキュメンタリー調でまとめていて、いわゆる映画的な文法は基本的に排除され、人物はたくみに素描されるが状況に対してつねに後景に退いている。つまり、きわめて洗練された架空のノンフィクションなのである。
映画が映画であるためには、必ずしも映画である必要はない、という大胆な、しかしきわめて頼もしい意思表示がおこなわれているものと解釈したが、それをわざわざオールスター・キャストでやるところがたぶんにソダーバーグなのであろう。いきなり死んで、死んだ魚のような目をして解剖台に横たわるのがグウィネス・パルトロー、CDCの職員で、死体袋が足りないせいでビニールで巻かれてしまうのがケイト・ウィンスレット、という有様で、面白がってやっているのか、それとも容赦がないと考えるべきなのか、そこのところがよくわからないものの、とにかく堂に入ったドキュメンタリーぶりにはとりあえず感心するしかない。マット・デイモンの平凡な市民ぶり、ジュード・ロウの得体の知れないブロガーぶりもなかなかによろしい。

Tetsuya Sato

『ベン・ハー』と『ベン・ハー』

ベン・ハー(1925 サイレント)
Ben-Hur
監督:フレッド・ニブロ
ジュダ・ベン・ハーはユダヤの貴族の息子であったが、事故によってローマ人総督に傷を負わせ、幼馴染のローマ人メッサラの裏切りにあって母と妹から引き離され、奴隷としてガレー船に送られる。送られる道筋でベン・ハーは一人の青年から水を受け取り、すると不思議なことに闘志満々の状態になり、ガレー船奴隷の苦役を生き延びるばかりか海戦の際してローマ軍の指揮官クイントス・アリウスの命を助けたことで奴隷の境遇から救い出され、アリウスの養子となってローマ人としての自由を受け、復讐を果たすために東方の地を訪れる。そこでベン・ハーはアラブの族長が持つ四頭立て戦車の御者となり、戦車競争に出場することになるのだが、競技の優勝候補と目されていたのは復讐の相手のメッサラであった。競争はベン・ハーの勝利に終わり、メッサラは死ぬ。そこでベン・ハーのもとに至急の報せがもたらされ、新たなユダヤの王を助けるためにベン・ハーはイスラエルの地へと急ぎ、ガリラヤで解放戦線を組織する。
物語の周囲に散らされたイエスの出現頻度(出てくるのがその右手だったり左手だったりと統一のないところが気になったが)も含め、1959年のワイラー版よりもこちらの方が原作に近い。原作が長大な場合、サイレント映画の方が有利なのだという気がしないでもない。その分、見せ物に徹する余裕も生まれてくるようで、冒頭、イェルサレムの場面からすでにセットの巨大さに圧倒されるが、それ以降、海戦の場面も戦車競争の場面などもワイラー版より遥かにスケールが大きいのである。海戦の場面なんか本当に洋上でロケをしたように見えるし、軍船の舳先(衝角には見えない)が船腹に突っ込んでいくあたりも実写でやってくれるのである(とはいえ考証はかなりいい加減で、漕ぎ手座の造りはどう見てもおかしいし、あの持ち方ではたぶん船は漕げないと思う)。戦車競争の場面はフレームを若干落としてスピード感を出しているが、それがなくても相当にスピードが出ていたようで、そのあたりの迫力は見ているとそのまま伝わってくる。この場面は撮影もかなり凝っていて移動撮影もほとんど自由自在という感じである。ワイラー版にあってこちらにない、というのは派手なジャンプシーンくらいであろう。というわけ目を奪われるシーンの連続であった。この二時間半は長くない。
ただ見ていて少々気になったのは、ローマ兵の脚なのである。なぜか誰も臑当てを付けていない。その代わりにタイツを穿いているのである。腰から上は完全装備で、腿から下は脚の形が丸見えで、ただサンダルだけを履いている。このバランスの悪さはかなり異様で、これならばいっそ長ズボンを穿かせればよいのではないかと思って見ていたら、ベン・ハーも同じようなことになっている。もちろんベン・ハーはローマ人ではないから、ははあ、方針として脚を出す場合には脛を隠さないことになっているのだな、と了解して、でも、なぜだろうと首を傾げた。そのうちにガレー船の場面になると、今度は音頭取りの後ろに全裸の男がこちらに尻を見せて晒し者にされている、戦車競争の場面では御者装束のベン・ハーやメッサラがまた妙に露出度が高くて、なんだかいよいよ怪しくなってくるのである。ワイラー版との最大の違いはこのセクシャリティの存在であろう。


ベン・ハー(1959)
Ben-Hur
監督:ウィリアム・ワイラー
ジュダ・ベン・ハーはユダヤの貴族の息子であったが、事故によってローマ人総督に傷を負わせ、幼馴染のローマ人メッサラの裏切りにあって母と妹から引き離され、奴隷としてガレー船に送られる。送られる道筋でベン・ハーは一人の青年から水を受け取り、不思議なことに心を癒され、そして海戦の際してローマ軍の指揮官クイントス・アリウスの命を助けたことで奴隷の境遇から救い出され、アリウスの養子となってローマ人としての自由を受け、復讐を果たすために東方の地を訪れる。そこでベン・ハーはアラブの族長が持つ四頭立て戦車の御者となり、戦車競争に出場することになるのだが、競技の優勝候補と目されていたのは復讐の相手のメッサラであった。というわけで歴史に名高い戦車競争の場面が始まるのだけど、この場面は掛け値なしにものすごい。スタントもすごいけれど、馬が素晴らしいのである。アラブの族長の前に馬が引き出されてくる場面では、馬好きでなくてもちょっとはっとする。一方、海戦の場面はひどく出来が悪くて、これは惜しまれるのである。予算のほとんどを戦車競技の場面で使い切ったのではあるまいか。チャールトン・ヘストンもそれなりの風格を見せているし、敵役のスティーブン・ボイドもそれらしい。戦車の走りに驚嘆し、陰謀と復讐、再会と回心の物語を素朴な心で楽しんでいれば、大味なところは欠点にならない。 


Tetsuya Sato

2011年11月11日金曜日

わたしなりの発掘良品『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)

ラスト・オブ・モヒカン(1992)
The Last Of The Mohicans
監督:マイケル・マン


フレンチ・インディアン戦争のさなか、イギリス軍マンロー大佐の二人の娘コーラとアリスは父を訪ねてヘンリー砦を目指していたが、途中、ヒューロン族の襲撃に遭遇、同行のイギリス軍部隊は事実上全滅する。二人はそこに現われたモヒカン族によって救われるが、これはチンガチュックとウンカスの親子、そしてチンガチュックの白人の義子ナサニエルであった。ナサニエルとモヒカン族の父子はコーラとアリスを砦に送り届け、ナサニエルとコーラは恋に落ちる。砦はフランス軍によって攻囲されて猛烈な砲撃を受け、やがてマンロー大佐は降伏を決意して砦をフランス軍に明け渡す。そして撤退するイギリス軍の隊列をヒューロンが襲い、マンロー大佐は殺害される。ヒューロンを率いるマグワはかつてマンロー大佐に家族を殺害された恨みを抱き、ただ大佐を殺すだけではなく、二人の娘の命も奪ってマンローの種を絶とうとたくらんでいた。その二人の娘は再びナサニエルとモヒカン族の父子に救われて脱出、マグワとその戦士たちが跡を追い、間もなく二人の娘はマグワの捕虜となり、ナサニエルは救出を誓ってモヒカン族の父子とともに姿を消す。
おもに先住民をかっこよく、植民者もそれなりにかっこよく、という方針のようで、イギリス軍はもっぱら殺されるためだけに登場するのが少しかわいそう。で、モヒカン族がやたらと強いのである。無類の走行性能と登攀性能を備え、銃を取れば前装式の滑空銃でとんでもなく遠くの標的に当てるし、腰だめで撃っても敵に当たるし、斧を構えて走り出すとどんな敵も瞬時にひっくり返るのである。こんなに強い部族がなんで最後の二人になるまで減ったのか、減ったからこんなに強くなったのか、よくわからないけどとにかく強いのである。とりわけモヒカン族の老父チンガチュックは無敵であり、クライマックス、チンガチュックとマグワとの決闘はほとんど一瞬で終わってしまうが、それでもこの映画の最大の見どころになっている。チンガチュックが持つ異様な形状をした巨大な戦斧は印象的であった。映像はとりあえずスタイルがあるが、説明的なだけで明らかに不要なカットが存在する。マイケル・マンは好きな監督の一人だが、バランスを取るのは上手ではない。音楽は主として情動に走り、戦闘シーンはかなり激しい。砦の攻囲戦はやや単調だが、それでもフランス軍の攻城塹壕、野砲、臼砲などのバリエーションは面白い。目配りは悪くないのである。ダニエル・デイ=リュイス扮するナサニエルことホークアイはまさしくホークアイという感じで、なかなかに精悍な役作りに成功している。マデリーン・ストーは実に美しいが、後れ毛が性愛の代替物のように目立ちすぎていて、これが少々煩わしい。 
ラスト・オブ・モヒカン [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月10日木曜日

わたしなりの発掘良品『チャンス』(1979)

チャンス(1979)
Being There
監督:ハル・アシュビー


イェージー・コジンスキー原作・脚本。庭師チャンスは老人の死によって屋敷から追われ、見知らぬ外界へ放り出される。生まれて以来、まったく社会と関わりを持たず、読み書きを知らず、ただテレビだけを友にしながら暮らしていたこの男は老人から与えられた極上の服をまとい、立派な押し出しでワシントンの町に現われ、アメリカ金融界の大物の車に轢かれて傷を負うと治療のためにその家に招かれる。そして立派な押し出しによって上流人士であると誤解され、物怖じしない様子から大人物であると勘違いされ、素朴な庭師としての発言はことごとくアメリカ経済の先行きを示す貴重な指標として大統領の演説に引用され、次期大統領候補として目されていく。
現代版カスパー・ハウザーという感じの話だが、周囲の人物はこの庭師が一種の精薄であることに最後まで気がつかないのである。この主人公とアメリカ権力中枢との対照がグロテスクで、行き場のない話を作り上げている。ピーター・セラーズは庭師チャンスを厳かな表情と厳かなほど緩慢な台詞回しで巧みに演じ、不思議なほどのリアリティと魅力を与えている。冒頭、庭を追われたチャンスが山高帽に傘をぶら下げた姿で国会議事堂の前に現われ、そこにリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ(ただしデオダート版)」が重々しくかかり、映画の寓話としての指向性が明確に示され、何かこの世ならぬ雰囲気をかもし出して見る者を何か興奮させる。 
チャンス [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月9日水曜日

わたしなりの発掘良品『13ウォリアーズ』(1999)

13ウォリアーズ(1999)
監督:ジョン・マクティアナン、マイケル・クライトン


実は『北人伝説』がマイケル・クライトンのベストではないかと考えている。いかにもそれらしいライナー・ノートが楽しいし、決して十分とは言えないものの註も頑張っている。文体にも努力があるし、報告者の叙述の視点にも工夫がある。このようにマイケル・クライトンがテキストの構築で工夫した作品というのはあまりない。おそらく本人にとっても同じような理由で『北人伝説』は気に入っているのではあるまいか。この映画はクライトン自身による製作であり、どうもかなりのところまでメガホンも握っているようである。内容はほぼ原作どおりで、映像的に説明しにくい部分だけが省略されるか、変更されている。丁寧に撮られた実に渋い映画で、とても気に入った。アントニオ・バンデラスが不思議なくらいの若作りで登場するけれど、それがまた妙に初々しくてよかったりもした。傑作だと言うつもりはないが、趣味的であるという点で文句なしに楽しめた。歴史的に料理された文化ギャップという話が好きなのである。ちなみにクライトンの歴史ネタでは他に『大列車強盗』があるが、これも悪くない。
13ウォーリアーズ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月8日火曜日

わたしなりの発掘良品『コンクラーベ』(2006)

コンクラーベ(2006)
The Conclave
監督:クリストフ・スクルーイ


1458年、法王カリストゥス3世の死で後ろ盾を失ったロドリゴ・ボルジアはオルシニ枢機卿に命を狙われるが、どうにか逃れてコンクラーベに臨み、そこでは恫喝、強要、買収などの政治的手管に取り囲まれ、それでもどうにか立ちまわってピウス2世の誕生に立ち会う。ぴよぴよとした若造がコンクラーベでもまれてちょっと大人になって出てくる、という話で、ロドリゴ・ボルジアを演じたマヌ・フローラという俳優がなかなかに魅力的であったほか、枢機卿をそれぞれに演じた俳優も味があり、どれもがいかにもという風貌をしていて見ごたえがあった。歴史的なパースを明瞭に意識しているところが好ましく、コンクラーベの細部にわたる描写も興味深い。後半に入ってダイアログがやや息切れしてくるが、ロドリゴ・ボルジアの青春という着眼点が面白いし、テンションは最後まで持続する。ところで枢機卿の一人、プロスペロ・コロナを演じたニコラス・アイアンズという俳優だが、このひとはジェレミー・アイアンズの関係者なのであろうか。プロファイルを見ると1970年の生まれなのでジェレミー・アイアンズの息子ということはないはずだが、面立ちから目つき顎つきまで実によく似ていたのである。 
コンクラーベ 天使と悪魔 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月7日月曜日

わたしなりの発掘良品『ワイルドレンジ』(2003)

ワイルドレンジ(2003)
Open Range
2003年 アメリカ 139分
監督:ケヴィン・コスナー

牛を追って現われた二人の善良なカウボーイが町を仕切る悪い牧場主と対決する。善良なカウボーイがどのくらいに善良かと言うと、溺れかけた犬を助けるくらい善良で、悪い牧場主がどのくらい悪いかと言うと、その子分は平然と犬を殺すのである。ストーリーも善悪の基準もいたってシンプルなことになっている。
カウボーイのうちの一方がロバート・デュバルで、こちらは老齢に達して気が短くなっていて、しばしば無謀に走る傾向がある。もう一方がケヴィン・コスナーでこちらは南北戦争の傷を心に負っていて、習性としてすぐに銃を抜くことを口に出すほど恥じている。そしてケヴィン・コスナー扮するこのカウボーイが町で出会って一目ぼれする行かず後家がアネット・ベニングで、兄の医者を手伝って小じわも隠さずに凛々しく働いているのである。ケヴィン・コスナーとロバート・デュヴァルの二人の関係が面白く、特にロバート・デュヴァルが実にいい味を出している。カルガリーでロケしたという風景はひたすらに雄大で美しく、淡々とした静かな描写が丁寧につむがれ、クライマックスのガンファイトはかつて見たことがないほど迫力があり、しかも徹底してリアルに描かれる。もちろん現実のガンファイトのリアリティを知っているわけではないけれど、刻々と状況を変えながら無数の弾が飛び交うこの場面はたいへんな説得力を備えていた。決闘の前に遺書を残し、どうせ死ぬなら甘い物が食べたいなどと言って雑貨屋までチョコレートを買いに行くあたりも人間の心理としてリアルに見えたのである。ガンファイトからラストに至るまでの経過はやや冗長になっているが、これはここでおこなわれるガンファイトの性格、つまり実はカウボーイたちが選択した結果ではなくて、住民による暗黙の決定であったという気配があって、それ自体を主人公たちのクライマックスに配置できなかったところに理由があるのではあるまいか。バランスを考慮した結果と考えるのか、後ろが長すぎると考えるのか、見るひとによって判断は異なることになるだろう。とはいえ見どころの多い力作である。 
ワイルド・レンジ 最後の銃撃 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月6日日曜日

わたしなりの発掘良品『ロック・ユー!』(2001)

ロック・ユー!(2001)
A Knight's Tale
監督・脚本:ブライアン・ヘルゲランド


14世紀の西ヨーロッパ。これから馬上槍試合というところで一人の騎士が絶命し、従者が代わりに出場する。従者たちはすでに三日も食べていなかったので、棄権して賞品をもらいそこねるわけにはいかなかったからである。代理は試合に勝って賞品を手にするが、代理に立ったこの従者には、騎士になるのだという野望があった。そこで従者仲間を口説いてユニットを引き継ぎ、騎士身分を詐称するためにたまたま通りかかったチョーサーも仲間に引き入れて証明書を偽造してもらう。偽騎士はフランス各地をまわって槍試合という槍試合で勝利を収め、恋人までも勝ち取った上で遂にロンドンの世界選手権(!)に出場するが、そこで敵役の伯爵によって身分を暴れ、試合を没収された上に、晒し台に縛りつけられてしまう。酷薄なロンドン市民は晒し台に嘲笑を浴びせかけるが、そこへもちろんという何の疑問もない展開で、話はひたすらにモダンなスポ根である。
競技場の観客席では客がウェーブしているし、ガキどもは顔にペイントしているし、主人公の甲冑にはナイキのマークが入っているし、主人公一味の中には明らかにTシャツを着ている奴がいるし、チョーサーの前口上はそのまんまプロレスの前口上なのである。ところがセットは実にしっかりしているし、衣装も主人公周辺の確信犯的に妙な服を除けばちゃんとしている、そして何と言っても馬上槍試合を大真面目にやっているのである。いや、それだけではない、ちゃんと百年戦争だってやっているのである。目配りのよい脚本が素晴らしく軽快な映画に仕上がっていて、いや、最後には感動までしてしまいました。 
ロック・ユー! コレクターズ・エディション [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月5日土曜日

わたしなりの発掘良品『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』(1993)

マチネー/土曜の午後はキッスで始まる(1993)
Matinee
監督:ジョー・ダンテ


キューバ危機の真っ最中に、キューバからいくらも離れていないフロリダ州キーウエストの町へ映画製作者ローレンス・ウールジーが女優を連れてやってくる。新作SF映画『マント』の特別上映をするためであったが、このウールジーというのはウィリアム・キャッスル系の怪しい興行師で、劇場を揺すったり客席の座面に怪しい装置を仕掛けて客のお尻を刺激したりすることに情熱を傾けていた。そして町の学校ではローティーンの子供たちが映画オタクをしたり恋をしたりしていて、土曜日の午後のマチネーに『マント』を見にやってくるわけである。劇中映画『マント』は強いて言えば『放射能X』と『戦慄! プルトニウム人間』を足して2で割ったような設定になっていて、蟻に噛まれた人間が放射能の影響で蟻人間になり、しかも巨大化してしまうという実にいいかげんな内容なのである。どのくらいいいかげんかと言うと、放射能の影響も核実験などというたいそうなものではなくて、歯医者のレントゲン撮影が原因というくらいにいいかげんなのである。そんなことでいちいち巨大化したらたまらないと思うわけだけど、とにかく巨大化してしまう。で、この低予算モノクロ映画『マント』がたいそう愛情を込めて作られていて、そのサントラがまた往年のユニバーサル・ホラーかかりっぱなしという状態で、何かというと『宇宙水爆戦』の触りがまがまがしく吹き鳴らされるし、そうかと思うと『大アマゾンの半魚人』が流れ出す、しかも画面を見るとそこでは蟻人間がブロンド女を、という具合で、これはもう嬉しくない筈がない。そしてこの映画が立派なのはそれでも話がオタクの回顧映画で終わっていないところで、テクニカラーというテクノロジーを通じて60年初頭を照射し、そこからこの時代のそれなりにグロテスクな態様を読み取ると同時に、キューバ危機とそれと取り巻く心理的な諸状況をベトナム戦争に対する予言的な経験として再認識させようとする試みがおこなわれているのである。ジョン・グッドマン扮する興行師ローレンス・ウールジーに与えられた役目は結論をそこへ持ち込むための狂言回しであり、その話に耳を傾ける子供たちが、実はこの後すぐに徴兵される世代に位置しているところまでを考えると、コメディのように見えるこの映画には信じられないほど悲劇的な表象が幾重にも差し込まれていることがわかるのである。傑作。ジョー・ダンテはもっと評価されるべき監督の一人であろう。 
マチネー/土曜の午後はキッスで始まる [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月4日金曜日

わたしなりの発掘良品『トップ・シークレット』(1984)

トップ・シークレット(1984)
Top Secret!
監督:ジム・エイブラハムズ、デヴィッド・ザッカー、ジェリー・ザッカー


冒頭、疾走する列車の中でオマー・シャリフ扮するスパイが敵の兵士に見つかり、屋根に逃れる。だが敵兵もすぐに屋根に現われ、逃れる場所はどこにもない。もはや万事休すというところで前方、屋根のすぐ上の高さに橋が現われる。列車の進行方向を背にした敵兵は橋の存在に気がついていない。オマー・シャリフ扮するスパイがほくそえむ。見ている前で橋は敵兵に激突し、そしてなぜか真っ二つに割れてしまう。敵兵は肩についた埃を払いながら襲い掛かってくるのであった。ということで全編、この調子。冷戦下の東ドイツへアメリカのロック歌手が訪問するという話なんだけど、この東ドイツというのがなぜか第二次大戦中のドイツそのまんま、視覚的に入り組んだトリックのようなギャグが無類に楽しい冗談映画超大作である。たしかヴァル・キルマーの劇場映画デビュー作品でもある。 
トップ・シークレット [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月3日木曜日

『決断の3時10分』と『3時10分、決断のとき』

決断の3時10分(1957)
3:10 to Yuma
監督:デルマー・デイヴィス

家族で牧場を営むダン・エヴァンスが息子二人を連れて牛を集めに出かけていくと、眼下では駅馬車が強盗団に襲われ、御者が射殺されて黄金が奪われる。状況を見届けたダン・エヴァンスは牧場に戻り、牛の飼育を続けるためにどうしても必要な二百ドルを工面するためにビズビーの町を訪れるが、途中、保安官と町の男たちの一団と合流する。駅馬車を襲った一味はすでにビズビーの町を通過しており、図々しいことに駅馬車襲撃を通報したのもこの一味であったが、強盗団のボス、ベン・ウェイドはバーの女を口説くために町に一人で残っていたため、ダン・エヴァンスと保安官によって逮捕される。ベン・ウェイドは仲間が逮捕された場合の救出手順を定めていたため、ベン・ウェイド救出のために仲間が現れるのは時間の問題であったが、保安官は一味の裏をかくことを考え、ベン・ウェイドをコンテンションの町に護送して三時十分発のユマ行きの列車に乗せることにする。そして保安官の一行がおとりとなり、ダン・エヴァンスがベン・ウェイドの護送にまわり、途中、自宅の牧場に立ち寄って夕食をしたためたあと、ベン・ウェイドがダン・エヴァンスの妻アリスを口説きにかかり、アリスもまたまんざらでもない様子であったにの少々を腹を立てながら出発、夜を徹して道を走り、翌日早朝、コンテンションの町に到着する。先回りしていた連邦保安官がホテルの部屋を確保していたので、ダン・エヴァンスはベン・ウェイドとともに部屋に立てこもり、途中、御者の遺族がベン・ウェイドへの復讐をたくらんだために銃声が起こり、その一事によってベン・ウェイドの所在が明らかにされ、一味が救出のために駆けつける。保安官は助っ人を集めるが、助っ人は一味の数を見て家に帰り、保安官もまた限界を感じてダン・エヴァンスの責任を解こうとするが、ダン・エヴァンスは自らの責任に拘泥し、夫を追って現れたアリスもまたダン・エヴァンスの説得を試みるが、ダン・エヴァンスはあくまでも自らの責任に拘泥し、やがて三時になってダン・エヴァンスはベン・ウェイドを盾にホテルを離れ、駅を目指して進み始める。原作はエルモア・レナード、冷静で口の減らない悪党ベン・ウェイドがグレン・フォード、思慮深いがやや強情な牧畜家ダン・エヴァンスがヴァン・ヘフリン。監督のデルマー・デイヴィスも含め、どちらかと言えば二流の人材が集まっているが、出来栄えは一流という西部劇である。言葉数を減らして生活描写から人物の背景を掘り下げていくオーソドックスな演出が好ましく、ヴァン・ヘフリンのストイックな演技は見ごたえがあり、チャールズ・ロートンJr.の撮影が非常に美しく、雄弁である。タイトルロールではフェリシア・ファーのあとになっているが、アリスを演じたレオラ・ダナの良妻賢母といった風情がまた忘れ難い。 
決断の3時10分 [DVD]




3時10分、決断のとき(2007)
3:10 to Yuma
監督:ジェームズ・マンゴールド

『決断の3時10分』のリメイク。大筋はオリジナルのとおりだが、クリスチャン・ベイル扮するダン・エヴァンスには南北戦争で負傷して片足を失い、そのせいで政府にお払い箱にされたと考えており、牧場経営に関する現実の圧力は暴力的な様相を帯び、水は意図をもって堰きとめられ、借金取りは借金の返済を求めて納屋を焼き、そうした暴力的な圧力に暴力をもって対処できない父親を息子は激しく軽蔑し、軽蔑を口に出すことを隠そうとしない。一方、ラッセル・クロウ扮するベン・ウェイドは単なる無法者ではなくて崩壊家庭出身の無法者ということになり、母親が自分を捨てたいきさつをダン・エヴァンスに語ったりする。そして冒頭に登場する駅馬車は単なる駅馬車ではなくなって鉄道の資金を運ぶ駅馬車になり、ピンカートンに雇われた男たちが乗り込んでガトリング砲で武装している。話はおおむね同じでも、死者の数がかなりすごいことになっているのである。駅馬車襲撃の場面だけで十人、そのあとベン・ウェイドがユマ行きの列車に乗り込むまでにさらに三十人くらいが死んでいる。そのうちの十人ほどがベン・ウェイドの子分と北米先住民なので、いちおうその分は除くとしても、それでも鉄道、司法、一般市民などで三十人ほどが死んでいる勘定になり、ここまで犠牲が出るような護送なら、ふつうはそもそもやらないであろう。そもそもの設定と状況が噛み合わないことになっているため、もともと混乱が見えるベン・ウェイドのキャラクターはさらに正体不明になり、それを演ずるラッセル・クロウはなぜだかぐるっとまわって混乱したグレン・フォードに見えてくる。なんだかよくわからないのである。クリスチャン・ベイルもそれなりに役作りをしているが、こちらはヴァン・ヘフリンに比べるとしゃべりすぎ。しかも肝心なところで話が素朴な自己達成から息子による父親の再確認に変えられているため、結末もそれにしたがって改変され(ついでに妻の地位も後退する)、それがどうにも後味が悪い。この後味の悪さも含め、もしかしたらきわめてマカロニウエスタン的な再映画化ではなかったか、などとも考えている。 
3時10分、決断のとき [DVD]


Tetsuya Sato

2011年11月2日水曜日

わたしなりの発掘良品『マーシャル・ロー』(1998)

マーシャル・ロー(1998)
The Siege
監督:エドワード・ズウィック


冒頭、ケニアとタンザニアの同時テロ事件の映像が流れ、クリントン大統領(当時)の会見を報せるニュース映像が流れ、クリントンが報復の可能性について言及すると、イスラム過激派の指導者が車に乗って登場する。車は砂漠の道を進み、村へ入ったところで山羊の群れに邪魔されて停まり、山羊の鳴き声に銃声が混じり、そして穴だらけにされた車から指導者が拉致されていく。舞台は一転してニューヨークに変わり、ここではバスに爆弾が仕掛けられて立ち往生している。最初の脅迫では犠牲者は出ない。テロリストは犯行声明を出すが、奇怪なことに要求がない。テロリストたちは自明のこととして指導者の解放を要求していたが、指導者の拉致はアメリカ政府部内の一部の勇み足によっておこなわれていたため、実は大統領すら知らされていない。
FBIニューヨーク支局のハバード捜査官はルーチンにしたがって捜査を開始し、その線上でアラブ系の入国者が浮かび上がる。早速尾行に取りかかるが、その周囲にはCIAが出現し、容疑者をCIAに奪われると、ハバードは奪還するためにCIAの拠点を急襲する。そうしている間に二つ目のテロが起こり、今度は多数の犠牲者が出る。ハバードはCIAの情報員エリス・クラフトに情報の開示を求めるが、クラフトは言を左右してばかりいる。二度目のテロが残した物証からFBIはテロ・グループの所在を突き止め、そこを急襲して脅威の排除に成功するが、間もなく三度目のテロが起こり、事態はますます錯綜していく。大統領首席補佐官は戒厳令の布告を臭わせ、FBIは合法的な捜査を求めて戒厳令に反対する。ところが先へ先へと進むテロに対して捜査は常に後手にまわり、ある朝、ハバード捜査官が目覚めたときには軍用車両の群れがブルックリン橋を占拠している。大統領は決断を下し、デヴロー将軍が率いる治安部隊が出動し、軍は無制限逮捕と拷問を開始した。
映画の主旨はアラブをテロリズムに直結させることではなくて、アメリカの「実力行使」に対して「法による正義」という形で疑問を投げかけることにある。そうした意味では、きわめて予見的な作品になっていると言えるだろう。軍の行動は批判的に描かれていて、それに対するFBIの行動は愚直なまでに法に忠実である。
おそらくはFBIの愚直さを保証するために、映画の作りは全体に真面目で、余計な夾雑物は入っていない。つまりFBIにしても軍にしても、とにかく真面目にてきぱきと仕事をするのである。これは見ていて実に気持ちがいいし、二つの組織の性格の違いが際立ってくる。どちらも同じ目的で同じことをしているわけだけど、要するに選択している手段がまるで違うのである(FBIが、FBIだ、逮捕する、とかやってると、上空にアパッチが現われて、合衆国陸軍だ、降伏しろ、と叫び始める)。特筆すべきなのは戒厳令施行後、軍隊が行動を開始してからののニューヨークの描写で、軍用車両が走り回り、駅や街頭に兵士が並び、アラブ系市民は次から次へと逮捕されて、競技場に用意された臨時収容施設に運ばれていく。その昔、アルゼンチンのクーデターで軍が市民にやったことを、ニューヨークでやってみたというわけである。一連の光景の不気味さはよく表われていた。
デンゼル・ワシントンはFBI捜査官を熱演している。アネット・ベニングは裏の多いCIAの情報員を、そしてブルース・ウィリスは法を私物化していく将軍を、実にそれらしく演じていた。FBIがかっこよすぎる嫌いはあるものの、これは実際にFBIが協力しているせいであろう。内容が内容だけに製作過程でアラブ系の人権団体からクレームを受けて、手直しがされたと聞いているが、少なくともその結果は好感の持てるものになっている。
マーシャル・ロー [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月1日火曜日

わたしなりの発掘良品『ジャングル・ジョージ』(1997)

ジャングル・ジョージ(1997)
George of the Jungle
監督:サム・ワイスマン


アフリカの奥地でゴリラに育てられたジョージはジャングルの王となり、そこへやってきたサンフランシスコの富豪の娘に恋をする。ところがこの富豪の娘には自称金持ちでハンサムで知的な婚約者がいた上に、その婚約者にはあきらかにたちの悪い二人組がはりついていた。どちらかと言うとストーリーは脇に置いて、馬鹿をしでかすことに重点を置いた映画である。ナレーションは平然と物語に介入するし、物語の登場人物はナレーションの介入に憤慨する。文明に毒された「白人」はひたすらに時代錯誤をしているし、「黒人のポーター」はその時代錯誤を意地悪く笑い続ける(魔法の絵とか言ってポラロイドを出すと、ライカの35ミリで反撃される)。アフリカの奥地の動物たちもまた激しく文明に汚染されているし、アフリカの奥地には絶対いない筈の動物がいくらか紛れ込んでいる。ゴリラは言葉を喋るし、卵をゆでる時にはゆで卵用の時計をちゃんと使っているようだし、そういうことで見世物になると判断されて悪いハンターがやってくると、ハンターたちの目の前には似たようなゴリラが五匹も出現するのである。「どのゴリラだ?」「チェスをやってるやつだ」といった間抜けな台詞はかなり多い。わたしの好みの映画であった。それからいささか意外なことに、主役のブレンダン・フレイザーがかわいらしい。つまり、あまり暑苦しくないのである。これだったら馬とたわむれるジョージの姿に上流階級の娘たちが見とれて、「官能的知性よね」と頷くのも決してわからないでもないのである。 
ジャングル・ジョージ [DVD]

Tetsuya Sato