2011年10月11日火曜日

ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』

実を言うと読み進めていくあいだ、もしかしたら調べたことを全部書いているのではあるまいか、文章を飾りすぎているのではあるまいか、といったことを考えていたが、最後まで読みとおしてみると構成上の必然性が浮かび上がる。無駄に思えた部分は語り手の拡張された感受性に連絡し、語り手はその感受性においてカフカスの風光明媚な山を一望し、路傍に咲く花に気づき、飛び立つ鳥のしぐさを見つめ、公園に転がる女の死体を記憶にとどめ、ドイツ東方政策における党官僚と国家官僚の対立を眺め、スターリングラードの臭気に顔をしかめ、アウシュヴィッツにおける数々の不正と不手際を目撃し、ベルリン攻防戦の悲惨を観察する。反応はほぼいつも同じ地平に展開し、頭を撃ち抜かれて朦朧としながら幻影の荒野をさまよっても、心象の連続は保たれることになるのである。そしてこのとめどのない連続性と、その連続性をよいことに不断に押し寄せてくる戦争の表象が悪臭芬々たる死体の山や人間の残骸となって語り手を侵し、語り手はこれに対抗するために、ほとんど幼児的なまでの執拗さで過去に執着することになる。しかし語り手が取り出す過去は同じ過去を共有する姉の言葉と態度によって損なわれ、語り手はこの損傷を修復するために記憶の外側にある過去を覗き、そこに背を向けると幻想の中に姉を描くことで架空の現在を作り出す。この異常な行動の起点にあるのは語り手自身がその立場から自動的に関わった悪であり、そこに続くのは言わば業務化された悪から逃避することへの迂遠な渇望であり、現実を希釈しようと試みる奇怪な防御反応である。背景が背景だけに悪は語り手の背後を覆い尽くし、したがって語り手がオレステスであるとすれば、その犯罪は語り手の家庭にとどまるものではなく、同時にエリニュスもまた語り手を追う二人の刑事に還元されるだけではなく、語り手を囲む環境全体に及んでいく。戦争とは復讐の女神だからである。長い、と言えばやはり長いような気がしないでもないし、語り手の経歴が都合よくあちらこちらにぶつかりすぎているような気もするが、綿密に調査され、よく構想された大作であり、各所で提示される状況を単に眺めていくだけでも面白いし、ヒムラー、アイヒマン、ヘスといった「著名人」の造形も興味深い。
なお、スターリングラード攻防戦についてはアントニー・ビーヴァー『スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943』を、ベルリン攻防戦については同じくビーヴァーの『ベルリン陥落1945』を、「特別行動」と当事者の心理状態についてはクリストファー・ブラウニング『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』およびダニエル・J・ゴールドハーゲン『普通のドイツ人とホロコースト』をお勧めする。


慈しみの女神たち 上
慈しみの女神たち 下
スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)
ベルリン陥落 1945
普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊
普通のドイツ人とホロコースト―ヒトラーの自発的死刑執行人たち (MINERVA西洋史ライブラリー)

Tetsuya Sato