2011年10月6日木曜日

北野勇作『レイコちゃんと蒲鉾工場』

北野さんの作品に登場する町は暗がりに戦争の影を隠していることがある。影はあくまでも影なので、その正体ははっきりとしない。どことの戦争なのか、どこでの戦争なのか、いったいどのような戦争なのか、詳細がなかなかあきらかにされないまま、ふと気がつくと、あふれ出た影に町はすっかり覆われている。いや、それどころか、町は最初から影のなかにあったことがあきらかになる。しかし、それで何かが変わるわけではない。銃弾が飛び交うことも、空から爆弾が降ってくることもない。町は変わらずに平穏を保ち、わかりやすくて大きな絵が視界に飛び込んでくることも、世界が俯瞰されることもなく、ただ淡々と、そこにいる個人の意識だけが日々の生活を移ろっていく。
このはっきりとしない戦争の影がそれなりにはっきりとした形で作品に現われたのは、二〇〇一年の『かめくん』が最初だと思う。主人公の「かめくん」はレプリカメ(知能を備えたカメ・ヒト型のアンドロイド)で、人類は木星での戦争にこのレプリカメを大量に送り込んでいるらしい。その戦争が続いているのか、終わっているのか、それともまた始まっているのかは、例によってはっきりとしないが、いずれにしても「かめくん」は戦場から遠く離れた平和な町の小さなアパートに部屋を借り、そこではっきりとしない仕事をしたり、リンゴをかじったりスルメを食べたりしながら幸せそうに暮らしている。戦場から離れた「かめくん」は戦争に関する自分の記憶にアクセスすることができないのである。だから「かめくん」は自分で調べて失われた記憶を呼び戻そうとする。やがて「かめくん」は戦場へ戻ることになるが、このとき「かめくん」の内部でただスイッチが切り替わるだけで、何か具体的な説明があるわけではない。スイッチが切り替わってしまうので、疑問を抱く瞬間もない。自律的な知能と推論の能力を備え、小説を読んだり映画を観たりすることができたとしても、「かめくん」はあくまでも機械であり、自動的に進行する戦争システムのなかに埋め込まれているのである。戦争システムと記憶の関係で言えば、翌年の『どーなつ』では戦場の兵士たちが機密保持のために記憶をマスキングされ、わからないことだらけの状態で戦っている。二〇〇四年に発表された『人面町四丁目』は悪い夢からそのまま引きずり出したような町を舞台にした作品だが、その最終章に印象的な場面が登場する。戦争が敗戦で終わるのと同時に、スイッチが入って工場長が破裂するのである。これもやはり機密保持のためらしい。このように戦争システムによる干渉は機械だけではなく、人間の記憶や肉体にまで及んでいく。二〇〇五年の『空獏』では、兵士たちは出征のおまけとして幸福な暮らしの疑似記憶を植えつけられ、今度は視覚が操作されて、戦場がふつうの町に見えるようになっている。
北野さんが描く世界では、現実と虚構が入り乱れ、人間と人間以外の存在もときどき境界を見失う。ときには生と死の区別も見えなくなり、語り手はどうかすると自分が死んでいることに気がついていない。世界はひどく混沌としていて、そこへ投げ出された主人公は確定されない状況に戸惑い、得体の知れない居心地の悪さを味わいながら、それでもしかたがないから自分たちの物語をできる範囲で続けていく。そうした世界の話なので戦争の正体がはっきりしないのもあたりまえと言えばあたりまえだが、この混沌のかたまりにたまに小さな穴があいて、そこから確定された事実が顔を出すことがある。いや、顔を出すというよりも、獰猛な怪物のように飛び出してきて頭にかじりついてくるのである。
あくまでも一般的な形式だけで眺めれば、『レイコちゃんと蒲鉾工場』はちょっと生意気な小学生「レイコちゃん」と蒲鉾工場で働く若者「甘酢くん」の日常を描いた連作作品だと言えなくもないし、事実そのとおりのものになっている。「甘酢くん」は「レイコちゃん」の宿題を手伝ったり、「レイコちゃん」と一緒に映画館で映画を見たり、線路の下の不気味な場所を探検したり、運河に出かけていって、そこで不思議なものを見たりする。「レイコちゃん」のお母さんの「アツコさん」はコーヒー店をやっていて、「甘酢くん」のためにおいしいコーヒーをいれてくれる。疲れた「甘酢くん」のためにスパゲッティ・ナポリタンの大盛りを作ってくれることもある。「甘酢くん」は会社で特殊事件調査検討解決係という部署にいて、蒲鉾工場で起こる特殊な事件を調査したり検討したり解決したりする。なにしろ蒲鉾工場で起こる事件だから、事件には蒲鉾が必ずからんでいる。暴走した蒲鉾が人間を誘拐したりするのである。人間の味を覚えた蒲鉾もどこかに隠れているのである。上司の「豚盛係長」は決して無能ではないけれど少しばかり身勝手で、「甘酢くん」を危ない場面に平気な顔で放り出す。そして「甘酢くん」も決して無能ではないので、自分を放り出した「豚盛係長」を危ない場面から逃がそうとしない。
滑稽さが見える物語の背後では、戦争の影が常に腕を広げている。どことの戦争なのか、どこでの戦争なのかははっきりとしないが、ただ総力戦であったということは記憶にはっきりと刻まれている。戦争システムはここでは記憶を操作するとか、視覚を操作するといったかわいらしいことはたくらんでいない。もっと大胆に、人間も人間以外の存在も、すべてを根こそぎに動員して、すりつぶして「ねりもの」に変えているのである。プログラムを入れた基盤に肉を盛り上げた蒲鉾が、兵器の一部となり、兵士の一部となり、そのうちにどちらともつかないものの全部となり、さらには蒲鉾を作る工場も、そこで働く工員もやがて蒲鉾へと変容する。人間は基盤=ソフトウェアを埋め込まれたハードウェアに過ぎなくなり、基盤を引っこ抜かれると人間は記憶を失ってしまう。だから人間は基盤を求め、基盤に依存するようになっていく。戦争と人間の関係を扱い、戦争が人間を絶滅していく過程をこれほどまでに無慈悲に描いた作品をわたしはほかに見たことがない。しかもここに描かれているこの世界は、確定している状況からはじき出されて、不確定の淵に永遠に沈められているのである。語り手は絶滅しかけている人間ではなく、すでに絶滅した人間であり、状況がたっぷりと悪いほうへ転がっていってすでに確定していることを知らないまま、ただ、同じことを繰り返している。そしてその繰り返しはどこかで断片化されていて、だから「甘酢くん」は目の前の出来事に既視感を抱き、見えないはずのものを見ることになる。これは死人が見ている夢のようなものであり、その声は事実上の彼岸から届けられているのである。
幸いなことに、北野さんの作品の登場人物はあまりおおげさには騒がない。恐ろしい事実が見えたとしても、たいていは淡々と受け入れてしまう。拒絶するタイミングがなかったり、拒絶するのが面倒だったり、あるいはうっかりしていたり、と受けれてしまう理由はいろいろあるが、とにかくいちおうは受け入れてしまう。そして自分を自分の役目にあてはめ、最後までふるまおうと試みる。彼らは世界を乱そうとしない。不思議なことに、世界がこれほどまでに凶暴で、心のあるものを平然と苛んでいるのに、その一方では、心のあるものが世界をいとおしんでいるように見えるのである。言うまでもなく、どの作品の世界も彼らなしには存在しない。わたしには、彼らが義人のように見えてならないのである。(『レイコちゃんと蒲鉾工場』光文社文庫 解説より)




Tetsuya Sato